翌日、灰色の雪雲に覆われた空の下、二人は学園を出発した。
半助の家に着いたのは昼過ぎである。
妙に慣れた様子で戸を開けた平太を半助は少し不思議そうに見ていたが、何も言わずに中に入ってきた。
室内は、平太が心配していたほど埃っぽくはなかった。
考えてみればひと月ちょっとしか留守にしていないのだから、当然だ。
きょろきょろと部屋の中を珍しそうに見まわしている半助を横で眺めながら、平太はここで過ごしたひと月前のことを思い出していた。
よもやひと月後にこんな形で訪ねることになるとは、な…。
「どう?何か、思い出せそう?」
「……よく、わからない……。…ごめん…わざわざ付いて来てもらったのに…」
目に見えて意気消沈している半助に、平太は軽く笑って言った。
「焦ることはないさ。今お茶を入れるから、先生は上がって、座ってて。囲炉裏に火をつけてもらってもいいかな」
「あ、ああ」
半助がぎこちなく火を起こしている間、平太は勝手知ったる土間で茶の用意をした。
しばらくすると、室内の空気がふんわりと暖かくなる。
平太は半助と囲炉裏を囲み、熱い茶を飲んでほっと一息ついた。
半助は、手の中で湯呑を転がしながら、ぼんやりと囲炉裏の火を見つめている。
ぱち…・・ぱち……・・
火のはぜる音の他は、何の音もない。
静かすぎる気配に平太がふと窓の方を窺うと、格子の向こう側に白いものが舞っていた。
「雪だ」
平太の声に半助もそちらへ顔を向ける。
半助はじっと窓の外を見つめ、それからひとり言のようにぽつりと呟いた。
「雪は…嫌いだ…」
「…どうして?」
「……思い出したくないことを…思い出すから……」
「……」
雪が嫌いというのは初耳だった。
半助は自分の過去を殆ど語らない。それでも、二人が今のような関係になってから、ぽつりぽつりと時折語られるその断片から、半助の幼少時代に何があったのか、ぼんやりとではあるが平太は知っていた。
雪も、おそらくそれに関係しているのだろうと平太は思った。
「…どうせ止むまでは帰れないんだ。ゆっくりしよう」
平太がそう言うと、半助はこくりと頷いた。
ぽつりぽつりととりとめのない話をしているうちに、次第に半助の口数が減ってゆき、とうとう返事が返らなくなった。
妙だなと平太が視線を向けると、半助はころりと床の上に横になり、眠ってしまっていた。
すやすやと眠るその寝顔は本当に子供みたいで、平太は苦笑する。
平太は半助を起こさないように静かに押し入れから布団を出し、上からそっと掛けてやった。
やがて、部屋の中に夜の帳が下りてくる。
半助は依然として静かな寝息をたてている。
深々と降る雪はやむ気配がなく。
平太は蝋燭に火を灯しながら、この分じゃ今夜は泊りかな…と思った。
外泊届は出していないが、この雪では仕方がない。
と、半助が微かに何かを呟いた。
「……ぇ…」
「先生…?」
平太が顔を近づけると、今度ははっきりと聞き取れた。
「…はは…うぇ…!」
はっと半助が目を開ける。
「……ぁ……」
半助は混乱したように平太の顔を見た。
その目に、平太は小さく息を飲んだ。
そこに、いつもの明るい太陽のような光は欠片もない。
あるのはただ一つ。
絶望だけ――。
………。
平太はゆっくりと近づき、驚かせないようにそっと体を抱き寄せてやった。
震えている肩が痛々しくて少しだけ抱く力を強めると、半助の目からぼろぼろと涙が零れ落ちる。
「……ぅ……く…っ」
半助は胸を大きく喘がせ、それでも何かを堪えるように声を上げずに涙だけを零した。
半助はいつもこういう泣き方をする、と平太は思う。
見ているこっちが苦しくなるくらい、静かに泣くのだ。
「…っ…雪は…いやだ……きらいだ……」
こんなに泣いているのに、半助の体は奇妙なほど冷たかった。
「…大丈夫。俺がいる。俺がいるよ」
平太は何度も背を撫ぜてやりながら、温もりを分け与えるように耳に唇を押しあて、繰り返し囁いた。
呼吸がだいぶ落ち着いてきた頃、半助がゆっくりと顔を上げた。
濡れた瞳が、腕の中からじっと平太の顔を見つめる。
その目に、平太は微かな違和感を覚えた。
この、目――。
「先、生…?」
平太が問いかけると、半助は、はっと我に返り気まずげに体を引いた。
「…ぁ……俺……・・」
困惑したようにそう言いながら、だがその視線は平太の上に注がれたまま離れない。
大切な何かを探すように、どこか必死な様子で、平太を見つめている。
平太はしばらくそんな半助を黙って見ていたが、再び腕を伸ばし、その体を引き寄せた。
耳に唇で触れると、びくっと抱いている肩が跳ね、体を固くする。
だが平太には、半助が逃げないだろうことがわかっていた。
わかるのだ。
半助の記憶が、戻りかけている。
今はただ、戸惑っているだけだ。
過去と現在の狭間で――。
「え…、と…」
半助が困惑したように呟くのに気付かないふりをして、ちゅ…と熱い耳を小さく吸う。
「ん…っ」
半助の眉根がぎゅっと寄り、微かに首を振った。
「拒まないで。こわくないから…」
半助――。
「…ぁ…」
驚いたように小さく声を漏らした唇に、平太はそっと自分の唇を合わせた。
「ぅ…ん…っ」
おそらく接吻も初めてなのだろう。平太はどうしたらいいかわからないという風に身を固くしている半助の唇をそっと開き、震えるその隙間から静かに舌を差し入れた。
舌先が、柔らかな半助の舌に触れる。
「っ…」
半助がぎゅっと平太の腕を強く掴んだ。
戸惑ったように見上げる目から、名残の涙が一筋零れ落ちる。
それを親指で拭ってやりながら、平太の唇は自然にその名を紡いだ。
「半助…」
「っ…」
ゆっくりと、半助の体を横たえる。
「半助が、大好きだよ…」
「……もっと…、呼んで…っ」
それから初めての愛撫に怯えたように震える腕の中の温もりは、平太の知らない、十五の半助だった。
それでも、微かに、けれど確かに見えている光を見失わないように、つなぎとめるように、平太はその体を抱いた。
繰り返し、愛しくてたまらないその名を呼びながら――。