「では、週明けには提出するように。以上だ」

 「「「ありがとうございました!」」」

 明日、明後日は休日というその午後。
 いつもなら生徒達は授業が終わった途端にさっさと教室を飛び出すのだが、その日は違った。皆、たった今教師から配布された紙を手に、席を立つことなく周囲の者と話しこんでいる。
 紙には、黒い墨で“進路調査票”と書かれてあった。

 「もうそんな時期かぁ…」

 「お前はいいよなー。ヒラダケ城に決まってんだろ?」

 「んー、まぁ、な。お前は?どうするか決めたのか?」

 「それがまだ迷っててさ…」

 ざわざわと珍しく真面目な表情で話しこんでいる生徒達を、半助は一番後ろの席から眺めた。
 記憶を失って十日。
 半助は今では実技だけでなく、教科の授業も彼らと一緒に受けていた。希望したのは半助だ。

 「俺、冬休みに親に泣きつかれちゃってさ…。頼むから家業を継いでくれって」

 「お前長男だもんな。家業をやりながらフリーの忍者って手もあるけど…、最初からフリーはきついよなぁ。一度どこかの城に就職して名前を売ってからでないと…」

 そんな会話に、みんな色々大変なんだな…と半助は思った。
 自分には家族がいないし、プロの忍者になる以外の選択肢は考えたことがなかった。忍術学園に通っているのだから当然皆も同じだろうと思っていたのだが、どうも話はそう簡単ではないようだ。
 生徒達の話は続く。

 「そりゃあそうだろ。仮に仕事をもらえたとしても、無名のフリー忍者にくる仕事なんて碌なもんじゃねーよ。あー、どうすっかなぁ…。ヤミダケ城の就職試験って再来週だったっけ?あれ受けてみようかな、俺…」

 「あそこはやめた方がいいんじゃないか?あまり良い噂聞かねーぞ」

 「けど評判がよくて待遇のいい城なんか競争率たけーし…。明秀みたいにあちこちからスカウトが来てるならともかく、俺なんか贅沢いえねーよ…」

 「そうだなぁ…。先生に相談してみるか?山田先生は…、ああ昨日から出張か…」

 ………。

 それまで生徒達の会話に黙って耳を傾けていた半助の唇が、きゅっと噛み締められた。
 そして、ふらりと立ちあがり、教室の入口に向かう。
 そんな半助に生徒の一人が気付いた。

 「あれ半助、どこ行くんだよ。今日は一緒にサッカーする約束だろ?」

 「…あ…えっと…。ごめん、俺、用事があるの忘れてて…。また今度、な」

 半助はそれだけ言うと、返事を待たずにぱたんと戸を閉め、教室を出た。




 裏山の丘の上からは、忍術学園の敷地をすべて見渡すことができた。
 半助は冬枯れの草の上に座り込み、じっとそれを眺めた。

 “学校”というものに通うのは、半助にとってこれが初めてだった。
 尊敬する師匠や気の置けない修行仲間はいても、こんな風に同年代の大勢の友人達と長屋で共に寝起きし、同じ教室で机を並べて授業を受け、食堂でおばちゃんが作る料理を食べ、放課後は校庭で一緒に遊ぶ、そんな経験はこれが初めてだったのだ。
 この十日間、何もかもがすごく楽しくて…。
 このまま記憶なんか戻らなくてもいいんじゃないか、そんなことさえ半助は思い始めていたのである。

 だが――。

 先ほど教室で彼らの会話を耳にして、急に胸が苦しくなった。
 二十三歳の自分は、教師である自分は、今の状態をどう感じるだろう。
 はじめて、そんな風に考えたのだ。
 自分の生徒達の大事な時期に傍にいてやりたいと、そう思うのではないか…?教師として彼らの相談に乗ってやりたいと、自分だったら、絶対にそう思うはずだ。
 なのに、それができない……。
 それはどんなに辛いことだろう。
 半助は自分の体をぎゅうっと両手で強く抱き締め、立てた膝に顔を埋めた。

 そのとき、背後でさく…と草を踏みしめる音がした。

 「これが、 “用事”?」

 かけられた声にはっと振り返ると、平太が立ってこちらを見ていた。

 自分がここにいると、どうしてわかったのだろう。

 「……」

 無言で正面に視線を戻した半助に、平太は気にした様子もなくぽすんと隣に腰を下ろした。
 そして、半助と同じように前を見つめて、静かに言った。

 「…先生、この景色、好き?」

 半助はしばらく黙った後、こくり、と小さく頷いた。

 「そっか。俺も、好きだよ」

 そう言って平太は、目を細めるようにして忍術学園を眺めた。

 「……平太」

 「ん?」

 「お前…、俺の家、知ってるか…?」

 「家って、街にある先生の家のこと?」

 半助は頷く。

 「知ってるけど」

 「…そこへ、連れて行ってもらえないか」

 「行って、どうするの?」

 「もしかしたら、何か思い出せるんじゃないかと思って…」

 「……」

 今にも雪が降り出しそうな寒空の下、冷たい風が半助の髪を揺らす。

 「……俺、さ。こういう学校とかって初めてで…、この十日間みんなと授業を受けたり、遊んだり、すごく楽しくて…。ほんとのこと言うと、もう記憶なんか戻らなくてもいいんじゃないかって、そんなこと思ってたんだ…」

 「……」

 「…でも、それってやっぱり、違うよな」

 半助はゆっくりと顔を上げた。

 「俺、本当に楽しくて、ずっとこのままでいられたらどんなにいいだろうって、思うけど……。やっぱりそれじゃ、駄目なんだ。いっぱい修行して、プロの忍者になって、そして教師になる道を選んだ俺の八年間を、俺がなかったことにしちゃ、いけないんだよ」

 「……」

 はっきりと告げた半助を、平太が少しだけ眩しそうに見返した。
 それから、半助の頭に手を伸ばし、くしゃ、と優しく撫でてくれた。
 その手の感触に、平太は俺が今感じている寂しさも、全部わかってくれているんだな、と半助は確信した。
 自分はそれだけで、十分だ。

 「…わかった。明日、一緒に行こう」

 そう言って微笑んだ平太に、半助は晴れやかににっこりと笑った。






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