そんなこんなで事態に何の変化もないまま五日が過ぎたその晩、半助は六年長屋の廊下をぽてぽてと歩いていた。
 「たまにはゆっくり語り合おうぜっ」と今ではすっかり打ち解けた生徒達に誘われたからである。
 蝋燭の灯りが漏れる廊下を進んでゆくと、特に賑やかな一室があった。
 襖を開けると、そこには《は組》の殆どの面々が顔を揃えていた。

 「おー、来た来た!はい、半助はここに座ってー」

 そう言って、座布団をとんとんっと示される。

 「菓子、食う?団子でも、干菓子でも、なんでもあるぜー。今、茶ぁ入れるなっ」

 最近気付いたことだが、二十三の自分は、なかなか生徒達に慕われていたようだ。何かと十五の半助をからかってはきても、彼らの目には尊敬する教師と同じ目線で話しているという喜びがはっきりと見て取れた。

 半助は勧められた座布団に座りながら、部屋の片隅にいる一人の少年をそっと窺った。
 多紀平太。
 は組の学級委員長でもあるその少年は、今は明秀という生徒とぽそぽそと何かを話していて、半助の方を見ていない。
 半助は、彼が苦手だった。
 いや、苦手というのは少し違う。
 だが彼が傍にいると、あのまっすぐな目を向けられると、どうにも落ち着かなくなるのだ。
 どうしてかはわからない。
 決して嫌いではないのだ。
 むしろ――。
 そこまで考えたとき、平太と明秀がちらりと半助の方を見た。

 っ…。

 ドクンと心臓が跳ねる。
 半助は慌てて、視線を逸らした。

 な、何をやってんだ俺……。


 「――だろ?半助」

 「…へ?」

 突然、隣の生徒から話を振られ、上の空だった半助は間抜けな声を出した。

 「聞いてなかったのかよぉ〜。そういうぼけーっとしたところは半助ちゃんと同じだな。だからー、半助はもう女は知ってんの?って話」

 「おっっ、女って…っっっ」

 「抱いたことある?女」

 その露骨な質問と、部屋中の興味津津な視線に、半助の顔が茹でダコのように真っ赤になった。
 それが全てを物語っていた。

 「あー、まだか」

 「そんなに照れなくていーぜ、半助。ここにいる俺らだって殆どはまだなんだからさ」

 「そ、そうなのか?」

 半助は赤い顔を上げた。

 「そーそー。やっぱさー、この寮生活っていうの?これのせいだと思うんだよな、俺。門限なんかあるしさー。これさえなけりゃ俺だって今頃は!」

 「あー、残念ながらそれは関係ねーな。こいつらだって俺らと同じ生活してんだし」

 そう言って、生徒の一人が明秀と平太に視線を投げると、部屋中の嫉妬と羨望の入り混じった眼差しが二人に集中した。
 当の二人は、ただ苦笑している。

 「明秀と平太って、もてるのか?」

 何気なく半助が尋ねると、周囲から怒涛のように返事が返ってきた。

 「もてるなんてもんじゃねーよ」

 「俺達がいつまでも女ができないのは、寮生活のせいなんかじゃねー。お前ら二人がくの一を独占しているせいだ!」

 「ちくしょー。お前らと俺達のどこが違うっていうんだぁああ〜!!」

 だが半助は、全然違う…と内心で思った。
 なんというか、顔立ちや外見の違い以上に、“余裕”があるのだ、この二人には。
 自信と言ってもいいかもしれない。
 半助から見れば、彼ら二人が女にもてるのはさもありなん、だった。

 …そうか…。
 平太って、もてるんだな……。
 経験だってあるみたいだし……。

 ………。

 なんだ…?
 胸が重いような、息苦しいような……。
 …なんか…、嫌だ……。

 半助は急に、この場にいることが耐え難くなった。

 「…俺、なんか具合がよくないから、先に部屋に帰って寝るよ」

 半助がそう告げると、一斉に生徒達から心配げな顔が向けられた。

 「どうしたんだよ突然。大丈夫か?」

 「吐き気は?気持ち悪いとかは?」

 「新野先生を呼んできてやろうか?」

 そんな生徒達の様子に、半助は申し訳ない気分になってしまった。と同時に、少し寂しいような気もした。彼らにとって“半助ちゃん”は、本当に大切な存在らしい。

 「大丈夫だよ。ちょっと疲れただけだ。昼間の実習、張り切りすぎたかな」

 そう笑って立ち上がると、なぜか平太も同時に立つ。

 「部屋まで送るよ」

 そう言って襖を開けた平太に、半助は慌てた。

 「へ、平気だって。部屋くらい一人で帰れる」

 だがそれは、他の生徒達により却下されてしまった。

 「送ってもらえよ。途中で倒れてるんじゃないかって、俺達の方が心配だ」

 「そーそー」

 「平太だっていっつも半助ちゃんに迷惑かけてたんだから、こーゆーときくらい甘えときな」

 これだけ言われて断ることもできず、半助は仕方なく、平太と一緒に部屋を出た。




 真っ暗な廊下を、半助は無言で歩く。
 平太も話しかけてはこない。
 半助は、隣にいる平太の存在がどうにも意識されて仕方がなかった。
 ただの生徒にすぎないのに、どうして彼といるときだけ、自分はこんな風になってしまうんだろう…。
 そんなことを考えながら歩いていたら、突然、ぐいっと強く抱き寄せられた。

 「な…っ」

 吃驚して平太の顔を見上げた半助に、平太は前、と目で前方を示した。
 そこには、鼻先三寸の所に太い木の柱――。

 「…あ…」

 半助が目を丸くして柱を見つめていると、平太が小さく噴き出した。

 「ったく、それ以上記憶なくしてどうすんだよ。赤ん坊になっちゃうぜ?」

 平太はくすくす笑って、半助の頭をぽんぽんと叩いた。
 だが半助を見るその目はとても優しくて――。

 「だ、誰のせいだと思って…っ」

 思わず叫んでしまい、すぐに後悔した。
 な、何を言ってんだ、俺は…。

 「誰のせいって…」

 平太が、困ったように半助を見る。
 その近すぎる距離に、再び半助の鼓動が早まった。
 平太の腕はまだ半助の体にまわされたままだ。
 半助は俯いて小さく身じろいだ。

 「と、とにかく…、腕、離してくれ…」

 …困るのだ…。
 だが、平太の腕が離される気配はなく。

 訝しんで顔を上げようとしたその瞬間、きゅ…と抱く腕に力が込められた。

 「っ…」

 驚いて目を見開いた半助の耳に、微かな声が届く。


 半助――。


 それは消え入るほどの小さな囁きだったけれど、聞き間違いなどではなかった。
 平太は確かに“半助”と呼んだ。
 泣いているのではないかと思うほどの、切ない声で。

 「……へい…た…?」

 おずおずと顔を上げると、平太はそっと半助の体を解放した。
 そして呆然としている半助にちょっとだけ微笑み、何事もなかったように、静かに歩きだした。

 隣を歩きながら、半助は、たった今聞いたその声が耳にこびりついて離れなかった。
 あんなに切ない声音で誰かに名を呼ばれたのは、はじめてだった。

 ……いや、ちがう。
 自分は、この響きを知っている……。

 でも、いつ…?
 誰に…・・?








<<   >>