翌日から、は組の教科は他の教師が交代で担当することとなった。
一方、半助の記憶が十五に戻ってしまったと知らされたは組の生徒達は、初めこそ戸惑っていたものの、本人から敬語は不要と告げられるや否や、同年代の友人のような気さくさで半助に接した。
それまではどんなに気取らないとはいっても、教師である半助と彼らとの間には見えない一線が確かに存在していた。それが今は、一時的とはいえ友達のように付き合うことができるのである。半助の体のことはもちろん心配だが、それでもやはり嬉しいのだった。
その日の午前は、伝蔵による実技の授業だった。
半助は校庭の隅っこの岩にちょんと腰掛け、その様子を眺めていた。一人で部屋にいるよりは気が紛れていいだろう、と伝蔵が勧めてくれたからだ。
…ふーん。レベル高いなぁ。
半助は目の前で繰り広げられているそれに、大層感心した。
自分の修行仲間達も相当なレベルのはずだが、なかなかどうして、この学園の生徒達もかなりのものだ。
そこに、生徒の一人から声が上がった。
「山田先生〜!半助も一緒に授業をするっていうのはどうでしょうか?」
彼らは十五の半助のことを、“半助”と自分達と同じように下の名で呼ぶことに決めたらしかった。
「授業って…、生徒としてか?」
伝蔵が微妙な顔をする。
「もちろん!半助ー。こっち来いよー!」
声をかけられ、半助はぴょんっと岩から飛び降り、皆の方へ駆け寄っていった。
もともと童顔のせいか、生徒の間に入っても全く違和感がない。
「半助だって遠くで見てるだけより、一緒に体動かしたいよな?」
「しかし、病み上がりだからなぁ…」
渋る伝蔵に、半助はにこりと笑った。
「体ならもう大丈夫です。実は俺も、さっきから動きたくてうずうずしてて…」
そう言って苦笑すると、伝蔵は少しの間考え込み、そして頷いた。
「まあ、少しぐらいならいいだろう。しかし具合が悪くなったら、すぐに言うこと。いいな?」
「はい!」
生徒達からわぁ!と歓声が上がる。
「やったな!ほら、これ、お前の分!」
「さんきゅ!」
生徒から手渡された手裏剣を、半助は嬉しそうに受け取った。
三十分後。
「……まじかよ…・・」
「……反則…だ…・・」
…ぜー…はー…。
木枯らしが吹きすさぶ校庭には、疲れ果てて指一本動かせない泥んこの少年達の山。
「本当に十五か?あれ…」
「忍術だけは記憶が残ってるとか…?」
半助と一緒に楽しく練習できる!と思った生徒達の期待は、あっという間に打ち砕かれた。
半助の忍術のレベルは、彼らよりも遥かに高かったのである。その動きについていけるのは実技に強い《は組》の中でも平太と明秀だけで、それもやっと、といった有様だった。
加えて忍術の記憶は残っているのではという推測も、伝蔵によりあっさりと否定された。
「いや、半助はこんなぬるい動きはせん。これは間違いなく十五の半助だ」
自分達が全く歯がたたない相手を“ぬるい”と形容され、生徒達はさらに打ちのめされた。
(…ふむ。最初はどうなることかと思ったが、案外いいかもしれんな)
伝蔵はそんな生徒達の様子を興味深く眺めながら、思った。
(自分達と歳の変わらない優秀な忍びと戦うのは、良い経験になる。……それにしても、半助。確かに今と比べれば動きは鈍いが、たった十五でこれ程とは…)
いつも笑顔を絶やさない同僚が抱える複雑な過去を、伝蔵は改めて思い知った気がした。
結局半助をまじえたままその日の授業も無事終わり、夕食時となった。
食堂でも、半助の周囲をは組の面々が賑やかに取り囲む。
「いただきます!」
半助は行儀よくぱんっと手を合わせると、ものすごい勢いで膳を片付け始めた。よほど腹が減っていたのか、その食べ方はまるで小さな子供のようで、平太は向かいの席でくすりと笑った。考えてみればどんなに忍術のレベルが高くても、この半助は自分達よりも年下なのである。
そんなことを考えながら眺めていると、半助の箸が椀の端でぴたりと止まった。ちなみに今夜の献立は、煮物、ご飯、そしてハンペンの吸い物である。
「……」
無言でじぃっと椀の中を見つめている半助に、すかさず両脇から声が上がる。
「二十三歳の半助ちゃんはな、練り物が大好物だったんだぜ!」
「……ぅ……」
「そうそう〜。半助ちゃん、うまいうまいって、いっつもお代わりしてたよな〜」
「……ぅぅ……」
とうとう半助の目にじわりと涙が滲んだ。
あーあ…と苦笑し、平太は助け舟を出してやった。
「その辺にしとけって。お前ら、先生の記憶喪失が一時的だってこと忘れてないか?記憶が戻った後どうなったって俺は知らねーぞ」
「「「……げ……」」」
途端に固まってしまった級友達に、平太は呆れた。
おいおい、本気で忘れてたのかよ。
阿呆すぎる…。
「ご、ごめん半助…!無理しなくていいんだぞ?半助ちゃんがどうであろうと、今の半助は十五なんだから!」
「そうだそうだ!無理はよくない!あ、これ、俺達が食ってやるからなっ」
級友達は大慌てで半助の椀を自分の盆に移し、ついでにバタバタッと席まで移動してしまった。
半助はきょとんとそれを見送り、それからほっとしたように息を吐いた。
後に残ったのは、平太だけである。
「まったく……。ほら、先生も早く食わないと、冷めちゃうぜ」
「あ、ああ」
半助の箸が再び動く。
しばらく黙々と食事を口に運んでいた半助だったが、不意にぽつり、と呟いた。
「…お前は、俺のこと“半助”って呼ばないんだな…」
「え?」
平太が箸を止めて視線を上げると、半助は少し寂しげな顔で平太の方を見ていた。
「敬語は使わないけど、お前だけは“先生”って呼ぶだろ…?」
「…特に、深い意味はないよ」
その一言で、平太はこの話題を切り上げた。
少し気は咎めたが、ここはちょっと譲れないのである。
なぜなら、深い意味が大アリだからだ。
平太が半助を名前で呼ぶとき。
それは“限られたとき”だけだった。意識してそうしたわけではなかったが、いつのまにかそうなっていたのである。
そんな呼び名を十五の、それも平太との記憶を失っている半助に対して使うのは、どうしても躊躇われた。もっとも平太だって年齢的には殆ど変わらないのだが、“まだ十五”そう言いたくなる雰囲気が目の前の半助にはあるのである。
平太の簡潔な返事に、半助はそれ以上追及するのを諦めたようだ。
再び食事に専念することにしたらしく、苦手な練り物がなくなったせいか、先ほど以上にがつがつと勢いよく飯を口に運んでいる。
と、平太は、半助の頬に米粒が付いているのに気が付いた。
「こんなとこに米粒くっつけて。本当に子供みたいだな」
笑って指で摘まんでやると、視線を上げた半助とまともに目が合う。
直後。
さぁ…っと半助の頬が真っ赤に染まった。
「…どうかした?」
怪訝に思い覗きこむと、半助は慌てたようにばっと顔を伏せてしまった。
「っ…な、なんでもない!」
「?」
そのまま顔を上げず再びがつがつと飯をかきこむ半助を眺めながら、平太は気付かれないように、そっと溜息を吐いた。