「先生あぶな…!!」

 「へ?…っ!?!」


 バシ!!!


 伊作の叫び声に顔を上げた瞬間、半助の前頭部に真っ白な物体が見事にクリーンヒットした。

 目の前いっぱいに星が散らばり、背中に固く冷えた土の感触。
 急速に霞む視界に鉛色の空が広がる。
 その奥からひとひらの雪が舞い降り、閉じゆく半助の瞳の上で溶けた。

 つめた…・・

 それを最後に、半助の意識は白く途絶えた。






 ピチャ…と額に感じた冷たい感触に、半助は重い瞼をゆっくりと上げた。

 「土井先生…!」

 「気が付いたか…!」

 最初に目に入ったのは、自分を心配気に覗き込んでいる顔、顔、顔――。

 「……」

 「まったく心配かけおって!」

 「……」

 「覚えとるか?土井先生は蛸壺に落ちかけた善法寺伊作を助けて、その直後に七松小平太のバレーボールに当たったんじゃよ。学園一不運な男を助けるのも考えものじゃのぅ。ほっほっほっ」

 「……」

 「ひどいですよぉ学園長先生〜……。土井先生、本当に申し訳ありませんでした!」

 「……えぇ…と……」

 半助はきょとんと小さく首を傾げた。

 「まったく学園長も伊作も、半助は目が覚めたばかりなんですから、そんなに急に話しかけんでください。…半助、大丈夫か?」

 「ふんっ。山田先生はいっつも自分だけ大人ぶって、可愛げってものが足りん!」

 「そんなもんはいりません。伊作、新野先生に土井先生が目を覚ましましたと伝えてきなさい」

 「は、はいっ」

 「……あの……」

 「ん?なんだ半助」



 「あなた方は、どなたですか?」



 半助はそう言って、唖然と自分を凝視する痩せた髭の男、白髪のおかっぱ頭の爺さん、黄緑色の服の涙目の少年をじっと見つめた。






 医者(新野というらしい)の下した診断は、“頭部強打による一時的な記憶喪失”というものだった。
 記憶喪失といっても、半助の場合、何もかも一切を忘れてしまったわけではなかった。
 失われていたのは、十六歳以降の記憶である。
 新野によれば、こういうことは決して珍しことではないそうで、一時的なものだから心配ご無用と落ち着いた様子で言っていた。
 しかしそれを本当に信じていいのか、半助にはわからない。
 あれから痩せた髭の男、山田伝蔵は、半助の今の生活について丁寧に教えてくれた。
 西日があたる自室で、半助は黙って伝蔵の語る話に耳を傾けた。

 「そうですか…。俺、ここで忍術の教師を……」

 自分は今、プロの忍者を目指して日夜修行に励んでいる。だから未来の(という言い方も変だが)自分がプロの忍者を辞めたという事実は意外だった。しかし子供は決して嫌いではない。とすれば教師という職業に就くことも、あり得ないことではないような気もした。

 「あの、それで、生徒達は今、どこに…?」

 「ああ、今日は朝から課外実習に出しているんだが、そういえばそろそろ帰ってくる頃だな。さて、お前さんのことをどう説明するか…」

 伝蔵が困ったように考え込んだとき、廊下をばたばたと走る音が近づいてきた。

 「土井先生……!!」

 スパンッと音を立てて襖が開き、顔を出したのは、若草色の服を纏った端正な顔立ちの自分と同じ年頃の少年。
 …いや、俺は今二十三だったか。

 「こら平太!襖を開ける前に声をかけんか!」

 伝蔵に叱られた少年は、しかし半助の顔をじっと見つめたままだ。

 「そこで新野先生にお会いして……、あの…土井先生が怪我をされたって……」

 「平太、襖を閉めなさい。怪我は大したことはない、大丈夫だ」

 「本当に?」

 「ああ」

 伝蔵が頷くと、少年ははぁぁぁと息をついて、座り込んだ。
 半助はそんな少年の姿をしばらくじっと眺め、それからぽつりと口を開いた。

 「君は、俺の、生徒…?」

 「っ」

 少年は息をのんで、半助の目をまっすぐに見た。

 「平太、ちょっと…」

 伝蔵が低く声をかけ、少年を廊下へ促す。
 少年はもう一度半助の顔を見てから、伝蔵と共に部屋を出ていった。
 その後ろ姿を半助はぼんやりと見送った。




 「…新野先生が仰っていたこと、本当だったんですね……」

 廊下を曲がったところで、平太は深刻な表情で呟いた。
 新野から話を聞いたときはまさかと思ったが、半助の目を見てすぐにそれが事実だとわかった。

 「一時的だろうとは仰っていたが…、新野先生にもはっきりとはわからんのだそうだ…。明日には記憶が戻るかもしれんし、数週間後…あるいはもっと先かもしれん、と…」

 「…このまま…、このまま記憶が戻らないということも、あるのでしょうか……」

 「それも…、やはりわからんとしか言いようがないそうだ」

 「……そう…ですか……」

 「半助には身内がおらんし、連絡を取る所もない。とにかくしばらく様子を見るしかないな…。ところで、は組はもう全員戻っているのか?」

 「はい、校庭に待機させています」

 「そうか。私はちょっと行ってくるから、お前はすまないが半助に付いていてもらえるか?一人にしておくのは心配だ」

 「わかりました」

 「頼んだぞ」

 そう言って、伝蔵は廊下を足早に去って行った。
 平太はその場で少しの間考え込み、それからゆっくりと半助のいる部屋へ戻り、襖を開けた。
 半助は先刻と変わらずぼんやりと布団の上で上半身を起こしたまま、じっと大きな目で平太を見つめた。

 「体の具合はいかがですか?」

 「え?…ああ。ちょっと頭が痛むけど、平気だ」

 半助がにこりと笑う。
 と同時に、その腹からグゥと音が鳴った。

 「ぁ」

 半助はぱっと頬を染め、決まり悪そうに俯いた。

 「…昼飯、食ってなかったのかな、俺…?」

 そう言いながら腹を片手でさする半助に、平太は思わず微笑んだ。
 記憶を失っていても、こんなところは全然変わらない。

 「もう食堂に夕食の用意ができているはずですから、今お持ちします。少しだけ待っていてくださいね」

 そうして部屋を出て行こうとすると、「あの、さ…」と後ろから呼びとめられた。
 振り返ると、半助が少し困ったように苦笑している。

 「新野先生から聞いてると思うけど…、俺、十五までの記憶しかなくて…、それで、同じ位の年にしか思えない君に敬語で話されると、なんか、すごく変な感じで…。えぇと、だから…、記憶が戻るまでの間だけでいいから、敬語、やめてもらってもいいかな」

 「……ええ、わかりました。先生がそうして欲しいのなら」

 「ありがと」

 そう言ってにこっと笑う顔はいつもと同じもののはずなのに、平太には不思議なほど幼く見えた。







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