その夜、文次郎は久しぶりに裏山に自主鍛錬に出かけた。
 そろそろ日付が変わる時刻となり、あと一巡したら戻るかと汗を拭いたとき、森の奥で微かに人の話し声が聞こえた。
 早朝ならともかく、夜間鍛錬をする者など文次郎の他にいるはずがなく。
 不審に思い慎重に様子を覗うと、場所はだいぶ離れているが、月明かりのおかげではっきりとその姿を認識することができた。

 (土井先生と、多紀先輩…?…先輩、まだ帰っていなかったのか…)

 こんなところで盗み見などいけない。
 そう思うのだが、文次郎の足は石のように固まったまま、動かすことができなかった。
 気になって仕方がなく、どうしても目が離せないのだ。

 文次郎の位置からは話の内容まではわからなかったが、二人は静かに言葉を交わしていた。
 そして不意に、青年の手が半助の腰にまわり、その体を強く引き寄せた。

 (…!)

 そして――。
 半助の唇を、青年の唇が覆った。
 半助は一瞬拒むような動きを見せたが、青年が何事かを囁くと、少しの躊躇いののち。
 ふっと身体の力が抜け。
 その手が戸惑いがちに青年の背に添えられる。
 そのまま、より深く二人の唇は合わさって―――。


 その先は、見ることは叶わなかった。
 す、と視界が暖かな手で遮られたからだ。

 「帰るぞ、文次郎。これ以上ここにいても、意味はない」

 耳元で囁かれる、落ち着いた声。
 そっと振り返るように促され、静かに掌が外されると、仙蔵がじっと文次郎を見つめていた。
 仙蔵の手はそのまま下へとおりて文次郎の手を軽く握り、それから無言で手を引いて学園の方へと歩き出す。

 「………」

 「……仙蔵……。……お前の手、濡れてる……」

 「……ああ、そうだな……」

 それは自分自身の涙だったことに、文次郎は山を下りるまで気づくことができなかった。




 文次郎と仙蔵は一言も口をきかないまま、二人の部屋に戻った。
 戸を開ける直前に、そっと解かれる、仙蔵の手。
 この手がなかったら…と文次郎はぼんやりと思う。
 きっと自分は、ひとりでここへ戻ってくることはできなかったろう。

 床に座り込んでいる文次郎の傍らで、仙蔵は一本だけ蝋燭に火を灯した。
 それから徐にごそごそと押入れを探り、ドンッと濃い色の液体の入った瓶を二人の間に置いた。

 「?……なんだよ、これ…」

 文次郎が首を傾げると、仙蔵はふっと不敵な笑みを浮かべる。

 「南蛮の酒さ」

 「南蛮の酒…?」

 仙蔵は自分と文次郎の二人分の湯呑を床に置き、瓶の栓を引き抜くと、どぼどぼとそれを注ぎ入れた。
 夜なのではっきりとはわからないが、深紅がかった色のとろりとした液体である。
 血みたいだな、と文次郎は思った。

 「我が国の酒よりずっと酔えるぞ。長次で立証済みだ」

 「もう飲んだのか?」

 「お前も誘ったが、断っただろ。そんな気分じゃないと言って」

 そういえば、そんなこともあったか。

 「それで皆で開けたんだが、放っておくとあっという間に空になりそうだったから、途中で私が取り上げたんだ」

 「よくあいつらが大人しく渡したな」

 「私の酒だからな」

 仙蔵は瓶を脇へおき、片方の湯呑を文次郎の前に差し出した。

 「お前の?」

 湯呑を受け取ると、やはりそれはちょっと口にするのが躊躇われるほどの、深紅色。

 「ああ。前にクロサギ城の屋敷までしんべヱと喜三太を迎えに行ったことがあったろう?その礼に、しんべエのお父上がくれたんだ。元はといえばあの一件も、土井先生があの人を堺まで送りに行った帰りに起きたことだからな」

 「……」

 不意に出たその名前に、文次郎はぐっと手の中の湯呑を握り締めた。
 名前を聞くだけで、心臓を掴まれたように切なくなる。
 もう決して、手のとどかない人――。
 そんなことは始めからわかっていたはずなのに、痛くて、苦しくて。
 今になって、自分がどれほどあの人を想っていたのかを、思い知らされる。

 「……仙蔵。お前は知っていたのか?先生と、先輩のこと……」

 「…いや。…クロサギにいたときにそうかなと思うことはあったが…、確信はなかったんだ。もし知っていたら、私はお前に言っていた」

 「……そうか……」

 俯いた文次郎の顔の前に、仙蔵がすっと湯呑を上げる。

 「ほら、お前も持て。乾杯するぞ」

 「…乾杯って、何に」

 こんなときに何を言い出すのかと、文次郎は顔を顰めた。
 しかし仙蔵は気にする様子もなく、腹の辺りで転がしたまま上げようとしない文次郎の湯呑に、勝手にコツンと自分の湯呑をあてた。

 「先生と先輩の未来に」

 それから顔を上げ、文次郎の目をじっと見て。

 「そしてお前の未来に――」

 そう言って彼はコクリと口に含み、途端、苦虫を潰したように顔を顰めた。
 やはり南蛮人の舌はよくわからん、と不可解そうに呟く。

 「………」

 文次郎はそんな同室人を、不思議な感慨をもって見つめた。

 なぜなら裏山を下りながら、文次郎はずっと思っていたのだ。
 食堂で見た、あの笑顔。
 あんな顔で先生が笑えるのなら、自分はそれでいい。
 五年前のあの夕方、そして今日、「頑張れ」と言ってくれたあの先輩と一緒に、先生の未来が幸せであってくれるなら、それでいい。
 涙を流しながら、自分は心からそう思っていたのだから――。

 “先生と先輩の未来に”

 仙蔵は文次郎の代わりに、それを言ってくれたのだ。


 「ま、酒なら何でも構わんか。お前もさっさと飲め。味はともかく高価な酒らしいからな、次はいつ飲めるかわからんぞ」

 「…仙蔵」

 「なんだ」

 「もう一度、乾杯しよう」

 文次郎が仙蔵の前に湯呑を掲げると、仙蔵は不審そうに眉を寄せた。

 「…何に乾杯するんだ?」

 文次郎は今度は仙蔵の目をまっすぐに見て、微笑んだ。

 「お前の、未来に――」

 そう言って、仙蔵の手の中の湯呑にコツンと自分の湯呑を触れ合わせ。
 文次郎はコク、とそれを口に含んだ。

 !!!

 その瞬間、危うく文次郎はすべてを噴き出しそうになった。
 どうにかそれだけは堪え、濃厚なそれをごくんと一気に飲み込むと、想像を遥かに超えた強烈な味が胃の腑まで沁みてゆく。

 「っな、なんだよこれ!渋っ!!」

 濡れた口元をぐいっと拭い、文次郎は叫んだ。

 「一体原料は何なんだ!おい仙蔵!……………せんぞう?」

 「……」

 まったく反応のない同室人に、文次郎は怪訝に思い視線を上げた。
 すると彼は、先ほどと全く同じ姿勢で湯呑を手にしたまま、真っ赤な顔で固まっていた。

 「……おい?」

 湯呑の中の液体とおんなじ色になってしまっている仙蔵に、この酒はそんなに強いのか?と危ぶみながらその顔を覗き込むと。

 「っ」

 仙蔵は、がばりと顔を引いた。
 その機敏な動きに、酔ってるわけではないのか、と文次郎はほっと息をつく。

 「顔、赤いぞ。大丈夫か?」

 「……お前が…急に変なことを言うから……」

 仙蔵は口の中でぼそぼそと呟いた。

 「?なんのことだ?」

 「…い、いや。なんでもない!」

 彼は焦ったようにそう言い捨てると、湯呑の縁までなみなみとあった酒をぐびっと一気に飲み干してしまった。
 文次郎は慌てる。

 「お、おい!ペース早すぎだろ、お前っ」

 「うるさいっ」

 仙蔵は再び瓶を手に取り、自分の湯呑にどぼどぼと溢れるほど注ぐ。

 「今日は俺が酔っていいんじゃなかったのか、仙蔵!」

 「お前も酔えばいいだろう!ほらどんどん飲め!」

 「わー!待て、まだ入ってるって!」



 泣いて。
 笑って。
 こんな夜をあといくつも越えてゆけば。

 すこしずつ、いつかは、忘れられるだろうか。
 想いを伝えることもなく終わってしまった、俺の、はじめての――。






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