(……今日はやけにくの一の連中が騒がしいな)
その朝。
朝食をとり終え食堂を出た文次郎は、すれ違うくの一というくの一が、妙に落ち着きなく浮き足立っていることに気がついた。
「さっき私、学園長先生の庵にお茶を持っていったときに見ちゃったー!」
「私なんか、廊下で挨拶しちゃったもんね♪」
「うそぉ〜〜!羨ましいぃぃぃ!!」
(………利吉さんが来ているのだろうか?)
いや、彼は今、しばらく東国へ行っていていないはず。
「――一体なんなんだ、あの騒ぎは」
朝っぱらからのハイテンションに呆れて隣の伊作に尋ねると、伊作は可笑しそうにくすりと笑った。
「多紀先輩が来てるらしいよ」
「多紀先輩って……、あの多紀先輩か?」
「そう。“あの”多紀先輩」
それだけで、黄色い声の理由としては十分だった。
自分達の三つ上の学年には、くの一教室を二分するほど強烈な人気を誇った生徒が二人いた。その一人が、今伊作が言った多紀先輩――多紀平太である。
彼が六年生のとき文次郎は三年生だったが、毎週のように校舎裏でくの一から告白を受けていたその姿は、一種の学園名物になっていたほどだ。
「どうしてまた?」
「ほら、昨日学園長先生に言われたじゃないか。今日の午後は卒業生を呼んで就職相談会をするから、校庭に集まるようにって。多紀先輩だけじゃなくて、他の先輩達も呼ばれてるみたいだよ」
「……そんな話あったか?」
「聞いてなかったの?…留三郎も心配してたけどさぁ、最近おかしいよ、文次郎。大丈夫?」
心配そうに覗き込まれ、文次郎はむつりと顔を顰めた。
「…あいつに心配される義理はない」
「またそんなこと言う」
伊作は困ったように苦笑し、調子が悪いならいつでも医務室においでよ?と言い残して、は組の教室に入っていった。
(――医務室で治るようなら、とっくに行ってるさ)
自分がおかしい原因など、自分が一番わかっている。
これから就職活動も本格的となるこの時期に、こんな状態のままではいけないことも――。
(だからといって、一体どうすればいいんだよ)
はぁ、と溜息を吐きながらい組の戸を開けると、先に来ていた仙蔵が窓際の席からちらりと顔を上げた。
「朝っぱらから鬱陶しい面を見せるな」
「じゃあ見なければいいだろ」
開口一番の毒舌に、ただでさえ弱り気味の文次郎はぐったりと一言だけ言い返し、隣の席に腰を下ろした。
(そういえば――)
「なあ、仙蔵」
「なんだ。見なければいいと言っておきながら、矛盾した奴だな」
「お前、なんで最近、一人で先に朝食に行くんだ?」
文次郎と仙蔵は、昔から朝食はいつも一緒にとってきた。
もちろん朝の鍛錬の時間がずれたりどちらかに任務が入ったりして別々になることもあったが、そうでなければ大抵は、自然と共に部屋を出、食堂へ行くのが長い間の自分達の習慣だったのだ。
それが最近は、朝起きるともう仙蔵の姿はなく、また鍛錬の場所もどこでしているのか全く見かけることがない。
そして教室に行ってはじめて姿を見る、というのが最近のパターンとなっていた。
「…別にいつも一緒に食わねばならぬ理由もないだろう。いい歳をして」
「…なんかひっかかるな、その言い方」
確かに自分もおかしいかもしれないが、仙蔵も最近少しおかしい、と文次郎は思っていた。
きっぱりしている所は仙蔵の美点だが、最近のそれは、少し違う。
行動では文次郎を避けているようにも見えるのに、話すときには妙につっかかってくるのだ。
伊作や小平太といるときはそうではない。以前のままの仙蔵だった。
文次郎に対してだけ、そうなのである。
(一体なんだというんだ)
「…俺に言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいだろ」
「貴様に言いたいことなど何もない」
「仙蔵…!」
いい加減はっきりさせてやると文次郎が仙蔵の肩を掴んだところで、ガラリと戸が開き担任が教室に入ってきたため、その話はそこで中断してしまった。
そしてすっきりしない気分のまま午前の授業は終わり。
今朝の議論の続きをされるのが嫌だったのか、終了の鐘とともに仙蔵は姿を消してしまい、文次郎は仕方なく他の級友達と共に食堂へ向かった。
そして杓文字のかかった入口の戸をくぐると。
(…………)
なかは、桃色一色だった。
つまり、今ここで食事をしている者の半分以上が、くの一教室の生徒なのである。
忍たまとくの一はそれぞれに食堂の利用時間が定められており、通常はこのような光景になることはない。まれにどちらかの授業がずれ込んだり、でなければ交代の僅かな時間が重なるだけである。
そして今回のこれは明らかに、“意図的なずれ込み”だった。
彼女達の目的は一目瞭然である。
食堂の隅のテーブルに座るその青年――多紀平太であろう。
「はいはい、食べ終わった子達は席を譲ってねー!」
盆を持ったまま呆然と立ち尽くしている文次郎達に気付いたおばちゃんが、パンパンッと手を叩いてくれる。
するとガタガタと残念そうに幾人かのくの一が席を立ち、ようやくちらほらと空席ができた。
「文次郎、多紀先輩のところに行こうぜ!」
「へ?」
文次郎がぼんやりしているうちに、級友達はさっさと席を決めて着席してしまう。
「先輩、お久しぶりっす!」
そう言って級友は青年の隣に座り。
青年の向かいをふと見ると、そこに座っているのは一年は組の教科担当、土井半助だった。
(ん?なんで土井先生がここにいるんだ…?)
一見結びつかないその組み合わせに首を捻った文次郎だったが、すぐに、ああ、と思い至った。
(先生は、先輩の六年のときの担任だったか――)
「おー、みんなでかくなっちゃって」
青年がにこにこと笑う。
彼はいつも屈託なく誰とでも接するため、くの一と同じくらいに下級生や同級生からも人気があった。
「先輩っ、今だから告白しますけど、俺の初恋はおタキちゃんだったんすよ!」
級友の一人が思い切ったようにそう告げると、他の級友達が可笑しくて仕方なさそうに笑った。
「覚えてる覚えてる。お前、俺がタキ先輩って男だぞって教えてやったら、ショックで数日寝込んじまったんだよな」
「あー、でもわかるなーそれ。俺先輩の女装だってわかってても、危うく道踏み外しそうだったもん」
級友達の言う彼の女装“おタキちゃん”も当時の学園名物で、何かと話題の多い人だったことを文次郎は改めて思い出した。
「先輩、最近はしないんですか?」
「するよ、時々。任務でも必要だしな。見たい?」
「「「見たい見たい!!」」」
当時でもあり得ないほどに可愛かったが、そこに大人っぽさの加わった今はどんなにか――。
想像するだけでヤバい……、と少年達の目が爛々と輝く。
「でも、お前たち、自分の彼女に満足できなくなっちゃうかもしれないぜ?それでもいいのか?」
年下の後輩達をからかうように、彼はくすりと色っぽく口端を上げた。
級友達の生唾を飲み込む音がゴクリ…と響く。
と。
パフンっと軽い音をさせて、半助が向かいの席から青年の頭をはたいた。
「こらこら、いたいけな後輩を惑わせるんじゃない。お前は就職の相談に乗るためにここに来たんであって、女装をするために来たんじゃないだろ?まったく…」
「というわけで、先生のお許しが出なかったから、また今度な」
ええぇぇ〜!とかなり本気でがっかりしている様子の級友達を横目で見ながら、文次郎は黙々と飯を口に運んでいた。
すると。
「文次郎も、久しぶりだな」
青年から名指しでにこりと笑いかけられ、文次郎は箸を止めた。
文次郎は人の外見にはあまり関心がない方だが、それでも、いい男だよな、と思う。
「先輩もお元気そうですね」
「仕事も大変だけどなー。……ま、その話は後でするとして」
青年はくるんと悪戯っぽく、文次郎を見つめた。
なぜかドキリとする。
「聞いたぜ、文次郎。結衣ちゃんと付き合ってるんだって?さっきここに来る途中で見かけたけど、すっかり大人っぽくなってて吃驚した」
「っ…」
自分が結衣と付き合っていることは学園中が周知の事実である。
だから今更なのだが、思いがけず想い人の前でそれを言われたことで、心の準備が全くなかった文次郎はひどく動揺してしまった。
「…ぁ…」
思わず半助の方を見てしまう。
反応を確かめずにいられなかったのだ。
半助は文次郎の方を見てはいたが、しかしその表情からは感情を読み取ることはできず。
「…文次郎?」
青年がそんな文次郎と、そして半助の顔を怪訝そうに見る。
「そういえば高久先輩は、今日はいらっしゃらないんですか?」
そんな微妙な空気に気づいていない級友が呑気な声で沈黙を破るまで、時間にしてほんの数秒。
青年の視線がふっと文次郎から外され、文次郎はほぅっと息を吐いた。
「明秀?あいつは俺と違って城勤めだし、時間が作れなかったんじゃないかな」
「連絡とったりはされてるんですか?」
「してるよ、時々。そうそう、あいつ、この前結婚したんだ」
えぇぇぇぇぇぇ!!?
突如、周囲のテーブルから一斉に悲鳴が上がる。
まだ食堂に居残り、このテーブルの話題に耳をそばだてていたくの一達である。
「だ、誰とですか?」
「誰って、美弥ちゃんだよ。くの一教室にいた浅木美弥」
「み…美弥先輩と……・・」
当時、高久明秀と多紀平太がくの一の憧れの的なら、浅木美弥は忍たまの憧れの的で、隣でがっくりと項垂れているこの級友もおそらくはそのクチだろうと文次郎は思った。
どちらかというと大人しいタイプの女性で文次郎の好みとは違ったが、黒く長い髪が印象的な美しい先輩だった。
「多紀先輩は、どうなんすか?」
「どうって?」
「結婚とか」
級友が何気なく発したその質問に、またもや周囲のテーブルから「ちょっと、余計なこと言わないでよ!!!」と激しいブーイングが沸き起こる。
しかし続いて青年の口から出た言葉は、しん、と一瞬で周囲を静まり返らせた。
「俺は、結婚はしないよ」
何の迷いもなくさらりと言われたそれに、文次郎も驚く。
「しないって…、ずっとしないっていうことですか?」
思いがけない返答に、級友が戸惑ったように聞き返した。
「ああ、そのつもり」
「え……、どうしてですか?相変わらずもてるんでしょう?先輩」
「べつに、人の幸せは結婚だけじゃないだろう?」
そう言って彼は、 すこし不思議な表情で微笑んだ。
学園にいた頃には見なかった、気負いのない、大人びた笑み。
………。
(あれ…、今の言葉、最近どこかで聞いたような……)
これに似た言葉を最近自分は確かに聞いていると、文次郎は記憶を巡らせた。
(いつだ…?)
――そうだ、仙蔵。
俺が“土井先生はどうして結婚しないのか”と言ったときに、あいつが言った言葉と同じなんだ。
「それはそうっすけど…」
イマイチ納得ができないという顔で、級友が首を捻る。
と。
半助がぱんっと両手を合わせ、「ご馳走様でした」と言い、席を立った。
「私は次の授業の準備があるからお先に。お前達もあんまりのんびりして、集合時間に遅れないようにしろよー」
「「「はーい」」」
それでその話題は終わりとなり、まだ皿に食事が残っている級友達は慌ててごそごそと箸を動かし始めた。
と、青年が立ち上がって、出口のところにいる半助に駆け寄り、呼び止めるのを文次郎は見た。
振り返った半助の耳元に青年は唇を寄せ、二言三言、小さく囁く。
すると半助は、にっこりと嬉しそうに笑って、頷いた。
その笑顔を、文次郎は息をとめて見つめた。
それは今まで文次郎が見たことのない、はっとするような笑みだったからだ。
そう、まるで特別な人の前でだけ見せるような――。
………。
半助が出て行った戸口をじっと見つめていると、戻ってきた青年と目が合った。
そのとき文次郎は、自分でも理由はわからないが、視線を逸らしてしまった。
微かなひっかかりが、文次郎の中に残った。
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