学園生活の中で、どんな先輩との間にも、ひとつやふたつ忘れがたい出来事はあるものだけれど。
多紀平太。
その先輩との間にも、そんな思い出がひとつ、文次郎にはあった。
あれはまだ一年の、入学して間もない春の季節のこと。
“日本一の忍者になる!”
何をもって“日本一”というのか、そんなことなど考えたこともなく、ただその夢だけを胸に忍術学園に入学した文次郎だったが、気持ちばかりが先走って頑張っても頑張っても空回りばかり、そんな時期があった。
その夕方も、文次郎はひとり、裏山の丘に座り、抱えた膝小僧に顔を埋めていた。
何があったのかなどもう覚えていないが、大方自分一人が突っ走ってチームワークを乱し教師に叱られたとか、そんなことだったに違いない。あの頃はそういうことがよくあったからだ。
一人前の忍者になるまでは、絶対に泣いたりしない。
それはこの学園に入学したとき、十歳の文次郎が自分に課した決まりごとだった。
だからその日も、文次郎は必死に涙を堪えていたのだ。
ちょっと前に夕食を知らせる鐘が鳴っていたけれど、チームワークを乱して叱られたばかりの自分がみんなのいる食堂に行く気にはどうしてもなれなくて、すっかり陽が傾いて冷たくなった草の上で、文次郎はただじっと蹲っていた。
時折山の葉桜がざわざわと不気味な音をたてて揺れるたびにビクリと肩を震わせて、それでも文次郎は頑なに座りつづけた。
と、突然ぽん、と頭の上に柔らかな掌の感触を感じ。
(?)
振り返ると、紫色の忍服の少年が文次郎の顔を、すこし不思議そうに見下ろしていた。
(四年生の、多紀平太先輩――)
その先輩はいつも明るく元気で誰からも人気のある先輩だったが、文次郎はあまり話をしたことがなかった。
自分とは違う世界の人、そんな気が、なんとなくしていたからだ。
「なんだ、泣いてるのかなと思ったんだけど」
頭を撫でて慰めようとしてくれていたのだろう。
文次郎の眼に涙がないことに気づくと、彼はやり場に困ったようにその手を彷徨わせ、苦笑いを浮かべた。
「泣いてなんか、いません」
本当は、ちょっとだけ泣きそうだったけど。
そのことは秘密にして、文次郎はきゅっと唇を引き結んで、少年を見上げた。
「そっか。ごめんな」
少年はにこりと笑って。
それから、なぜか文次郎の隣にぽすんと腰を下ろした。
「………」
「………」
それから二人、どれくらいの間、そうしていただろう。
頭上でかぁかぁと鳴いていたカラスは、とっくに山にいる家族のもとへ帰ってしまった。
太陽ももう今日の仕事は終えたとばかりに山の向こうに隠れてしまい、辺りはすっかり暗くなっている。
そして文次郎と少年の二人だけが、おなじ姿勢のまま、そこに座っていた。
「…夕飯の鐘、鳴っていましたよ」
「知ってるよ」
「…ご飯、食べに行かないんですか」
「文次郎は?行かないのか?」
「……」
文次郎は、ふいっと俯いた。
「じゃあ、俺も行かない」
「え…」
思わず顔を上げると、少年は黙ってにこにこと文次郎の顔を見ている。
「…食べなかったら、お腹、すいちゃいますよ」
「もう、すいてるよ」
「だったら…」
「文次郎が行くなら、俺も行く」
「……俺は……」
「文次郎が行かないなら、俺も行かないよ」
「…俺と先輩は関係ないでしょう?行ってください」
「やだよ」
「なんで…」
「だって俺、お前の先輩だもん」
「……」
「後輩がこんな所で一人で一生懸命泣くのを我慢してるのに、それを見ちゃったのに、放っておくことなんかできないよ」
「…………おせっかいですね」
ぼそりと呟くと、先輩は可笑しそうに声をあげて笑った。
「言うな、一年坊主」
「……」
と、そのとき。
きゅるるるるぅぅ
「「……」」
なんともマヌケなその音の出どころは、紛れもなく文次郎のお腹の中。
文次郎はかぁぁぁっと果実のように真っ赤になった頬を、がばりと俯けた。
かっこ悪すぎて、顔を上げられない。
………。
すると突然、少年がすくっと立ち上がり。
顔の前に差し出される、文次郎よりも少し大きな手。
「俺、すげー腹減っちゃった。やっぱりもう我慢できないや」
(え――)
「食堂、一緒に行ってくれないか?」
「……」
文次郎はそれでも、しばらくの間逡巡して。
それから、そおっと手を伸ばし、差し出されたその指先に自分の指先を微かに触れさせた。
途端、ぎゅぅっと強く握り返される。
文次郎が驚いて顔を上げると、優しくまっすぐに見返す先輩の目。
「――文次郎はさ、絶対にいい忍者になるよ」
「……」
「だから、頑張れ!」
明るく笑って、くしゃりともう片方の手で頭を撫でられ。
そのとき文次郎は、なぜかはわからないけれど、先生に叱られたときよりも、丘の上に一人で座っていたときよりも胸がいっぱいになり、泣いてしまいそうになった。
だけど必死で、歯を噛みしめて我慢する。
長い間裏山にいた文次郎の体は芯から冷え切っていたのだけれど、その暖かな手の感触は、体と同じように冷え切っていた文次郎の心を優しく溶かしたのだった。
その後。
先輩に手を引かれて山を下り一緒に食堂に入ると、もう誰もいなくなってがらんとした食卓の片隅で仙蔵がひとり、怒ったように文次郎を睨みつけていた。
彼の前に置かれている盆の上の食事は、まったく手がつけられていないままで。
「お前は私を餓死させるつもりか」
唸るようにそう言った仙蔵に思わず笑ってしまった文次郎は、ますます仙蔵を怒らせたのだった。
それからも、やはり同じような失敗をしてチームワークを乱してしまうことはあったが、文次郎は素直に級友達に「ごめん」と言うことができるようになり、やがてそんな失敗も次第になくなっていった。
学園生活の中で、誰にもひとりやふたり、憧れの先輩というものはいるものだけれど。
もしもたった一人だけ選ばなければならないとしたら。
それはきっと彼だろうと、六年生になった今も時々、文次郎は思うのだった。
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