深夜。
しんと静まり返った校舎裏を見回りながら、半助は山の頂に掛かる冴え冴えとした月を仰いだ。
今は闇に沈んで見えないが、あの裏山は桜だけでなく紅葉も見事だった。
しかし、それももう盛りを過ぎ、葉を散らせ始めている。
そういえば、前に平太に紅葉狩りに行こうと誘われていた。
結局、行くことはできなかったけれど――。
あの夜から、もう七日が過ぎていた。
その間に平太と交わした会話は教師と生徒の当たり障りのないものばかりで、そんな日々をいつまでも続けるわけにいかないのは、どちらにもわかっていた。
何らかの答えは出さなければならない。
それをしなければならないのは平太でなく、自分。
二人の関係を先に進めるのか。
それとも。
平太がこのところ以前に増して、くの一達からその種の告白を受けているのを、半助は知っていた。
本人は言わないが、広くはない学園内のこと、自然とそういう噂は教師の耳にも届くのだ。
は組の生徒達から面白半分に聞かされることもあった。
半助と付き合い始めてから、平太は変わった。
自惚れではなく、それは明らかな変化だった。
成績にもそれは現れていたし、それ以上に、彼の纏う空気が違う。
元気な明るさは以前のままだが、今はそれに落ち着いた深みのようなものが加わっていた。
そんな彼にくの一達が惹かれるのも、無理はなかった。
いつか本人にも言ったことだが、半助は平太の気持ちを疑ったり不安に思ったことは、ただの一度もない。
それは自信があるからではなく、不安になるなどあり得ない位に平太が惜しみなく愛情を与えてくれるからだ。
しかし、何が平太にとって幸せか、となるとそれは別の話だった。
そんなことを言えば、半助といることが自分の幸せだと、彼は即答するだろう。
だが七歳上の、平太よりは世の中というものを見てきた半助から見ると、果たして本当にそうだろうか、と思ってしまうのも事実だった。
幸せの定義なんて人それぞれ。
それは半助もわかっている。
だからといって、年齢や性別なんて全く関係ないと、そんなものは平太の幸せには無関係であると、そう言い切ってしまうことは、まだ半助にはできないでいた。
平太のことを好きになればなるほど胸の奥で燻ぶってきたその疑問は、今回のことをきっかけに、再び半助を揺るがしていた。
平太との関係を先に進めることに躊躇しているのも、教師であるという理由と同じくらい、この理由によるところも大きかった。
そんなことを考えつつ、半助の足が火薬倉庫に差し掛かったとき、扉がほんの僅かに開いていることに気がついた。
近づくと、中に人の気配がある。
半助は自分の気配を消し、扉の隙間からそっと中の様子を窺った。
しばらく後、半助ははぁ…と溜息をつき、少し困ったように空を見上げた。
さて、どうするか。
「あ…っ。……ん…」
一瞬小さく震え、くたりと弛緩した体を、明秀は片手で支えた。
そっと美弥のそこから手を離し、柔らかな体を抱き締める。
しばらくそのままじっとしてから、まだ整わぬ息を零す唇に軽く口付け、囁いた。
「俺、明日の授業の準備があるから。今夜はここまで、な」
「え…?でも……明秀君、は……?」
「可愛い美弥が見られたから、十分」
「ば、ばか…っ」
上気した頬のまま、美弥がばしんと明秀の頭をはたいた。
くの一の腕力は並じゃない。
その衝撃に明秀の頭はじぃんと痺れ、周囲の音が一瞬遠のく。
「美弥…、まじでかなり痛いんだけど……」
「あっ、ご、ごめん、つい!」
慌てて謝る美弥に、明秀は苦笑した。
基本的に静かで大人しい美弥だが、実は結構気が強い。
そういうところも明秀は気に入っていた。
「どうだ?…もう、歩けそうか?」
美弥の衣服を整えてやり、聞く。
赤い顔で美弥が頷いたので、明秀は倉庫の扉を開け、表へ出た。
「送ってくれなくていいよ。授業の準備があるんでしょ?」
「一人で帰れる?」
途端に美弥が吹き出した。
「私を誰だと思ってるの」
「そうだな。――じゃ、おやすみ」
くすくすと笑っているその額に口付けると、美弥はくすぐったそうに微笑み、くの一長屋へと帰って行った。
月明りに照らされた後ろ姿が完全に見えなくなるのを確認して、
「お待たせしました、先生」
と明秀は木の上へ声をかけた。
間を置かず、トンと半助が明秀の前に降り立つ。
着地音が殆どないことに、明秀は軽く目を瞠った。
「やっぱりお前は気付いてたか…。さすがというか、なんというか」
担任教師はそう言って、困ったように笑った。
「最初は気付きませんでしたが、先生気配を戻したから、それでわかりました。美弥は気付いていませんでしたが。…すぐに声を掛けなかったのは、美弥を気遣ってくれたんでしょう?ありがとうございました」
「まぁ、なんだ。何から言うべきか…」
ぽりぽりと頬を掻く半助に、明秀は先に頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「何が?」
「倉庫を夜間に勝手に使用して」
「そうだな。…まぁ火薬委員長だし、お前のことだから大丈夫だとは思うけど、何かあってからじゃ遅い。それに、学園内には一年生だっているんだから…、場所は選べよ。じゃあどこならいいかと聞かれても困るけどな」
と半助は苦笑した。
そんな半助を、明秀は少し意外な気持ちで眺めた。
頭ごなしに注意する人じゃないことはわかっていたが、それでも生徒達から猥談を振られるとすぐに真っ赤になる半助である。少しは狼狽しているかと思ったのだ。しかし目の前の半助は、全く落ち着いていた。
やはり大人、か――。
思っていた以上に、甘くない。
明秀は半助を教師として尊敬していたが、良い意味でまた認識を改めた。
それから半助は少し真面目な顔で、言った。
「ただし、わかってると思うけど、美弥はくの一だ。気を付けるべきことは気を付けろよ。…大事な恋人の体を守るのは、明秀、お前の役目だ」
「つまり、美弥が孕むことのないよう注意しろと、そういうことですか?」
「有り体に言えば、な」
「それは、安心してください。よくわかっています。……でも、こういうことに関しては固い方かと思っていましたが、意外と理解があるんですね」
明秀が思ったままを口にすると、半助は葉の落ち始めた木々に目をやり、静かに言った。
「十五だからな…。大人だよ。俺が禁止することじゃないだろう?」
「………あいつも、十五ですよ」
「……そうだな」
半助は少し視線を落とした。
「俺は先生とあいつのことに口出しするつもりはありませんが、…あいつ今、だいぶ参っています」
「ああ、わかってる…」
「…先生も、ご存じでしょう?最近、あいつ毎週のようにくの一から呼び出されています。……うかうかしていると、取られちゃいますよ。いいんですか?」
そんなことはありえないのは百も承知だが、明秀は敢えて言ってみた。
このところの平太と半助の様子は見るに見兼ねるものがある。
その原因も、明秀にはおおよそ察しがついていた。
いっそのこと、これを機にまとまってしまえばいい、と考えたのだが。
「なぁ、明秀」
半助は明秀の方に向き直った。
「俺は教師で、平太は俺の大事な、大事な生徒だ。それは俺にとってすごく大切なことで…。でもな、それは平太だけじゃない。そのくの一も、お前だって、同じなんだよ、明秀」
そう言って、本当に大事そうに明秀の髪に手を伸ばし、そっと撫でた。
その目に、迷いは全くない。
明秀は、半助の言いたいことが、なんとなくだがわかった。と同時に、半助を好きになった平太の気持ちも、わかった気がした。
世の中、自分の幸せしか考えてない奴らが殆どだっていうのに、な……。
風がざわ、と吹き抜け、紅く染まった葉が闇の中にちらちらと散る。
半助はその様をしばらくじっと見つめていたが、やがて何かを吹っ切ったように顔を上げ、
「そうだな…。もう、答えを、出さなきゃいけないな。平太のためにも……」
と、寂しそうに微笑んだ。
何やら話がまずい方向に行ったように思われ、明秀が言葉を探しているうちに、半助は話を切り上げてしまった。
「じゃあ、俺は見回りの続きをするから。お前も、早く部屋に戻って寝ろよ。こんな理由で明日遅刻したら、承知しないぞ」
そう笑って、半助は去った。
明秀は、その場に突っ立ったまま、考え込んでしまった。
あの半助ちゃんの様子からすると……、やっぱり、そういうことだよなぁ…。
ちょっと背中を押してやるつもりが、思わぬ方向に話が行ってしまった。
自分はそういうつもりで言ったのではなかったのだが…。
もっとも明秀は、さほど心配してはいなかった。あとは平太がどうにかするだろうと思うからだ。あの親友は、それをできる強さを持っている。無責任なようだが、明秀は平太のそういう面をよく知っていた。
半助ちゃんが何を言おうと、あいつがちゃんと収まるべきところに収めるだろう。
それに半助にはああ言ったが、平太がすでに何らかの答えを出しているらしいことも、明秀は薄々察していた。
平太が聞いたらまたおいおいと突っ込みを入れるであろうことを考えながら、明秀はふわぁと一つ欠伸をし、親友の眠る長屋へと帰って行った。