「明日、紅葉狩りに行きませんか?」

 そう誘われたのは、明秀と話をした夜からさらに三日が過ぎた午後だった。
 授業を終え職員室へと戻る途中の外廊下で、後を追いかけてきた平太に声をかけられたのだ。
 明日は休日である。だから、それはいい。
 だが。

 「紅葉狩り…?」

 半助は、すっかり葉を落とし冬模様となった裏山を眺めた。

 「ええ、紅葉狩り。行きませんか?」

 平太はにこりと笑って、繰り返す。
 こんな風に平太と話をするのは、久しぶりだ。

 「あ、ああ」

 「約束ですよ!」

 思わず頷いてしまった半助に、平太はそれだけ言うと、教室へ戻って行った。



 平太がどういうつもりでこんな誘いをしたのかはわからない。だが、ちょうどよかったかもしれない、と半助は思った。

 半助は、平太に、もう二人で会うのはやめにしようと言うつもりだった。これからは、ただの教師と生徒でいよう、と。
 結局、半助はどれだけ考えても答えを出すことができなかった。
 たとえ卒業して、平太が半助の生徒でなくなったとしても、それで結ばれてはい解決、という問題ではないのだ。
 ならば、そんな状態のままいつまでも平太を縛りつけておくわけにはいかない。
 今が幸せならばそれでいいではないか、と、そんな風にはどうしても半助には考えられなかった。
 自分のことならばそれでいい。
 けれど、自分以上に大事な彼のことを思うと、右も左も選べないでいる宙ぶらりな状態の自分に、彼を縛りつけておくことはどうしても躊躇われた。そんな状態がいつまで続くかわからないのだから、尚更だ。

 そう決心はしたものの、なかなかそれを平太に切り出す機会がなく、半助は困っていたのだ。
 そこに、先程の誘いがあったのだった。


 とうとう明日、か……。

 自分で決めておきながら、半助にはその時の自分が全く想像できなかった。






 翌日は、朝から快晴だった。
 朝食をとり、外出着に着替えて、二人は学園の門を出た。
 晩秋の乾いた空気が気持ちいい。

 半助はてっきり例の裏山へ行くのかと思っていたのだが、平太はもう少し遠くへ行くのだと言った。

 「その方が、ゆっくり話せるでしょう?」

 と。

 平太は、何を話すつもりなのだろう。
 いずれにしろ半助の答えは出てしまっている。

 平太は街で昼食用の握り飯を調達し、しばらく街道を進んでから、徐に獣道へ足を踏み入れた。
 平太の後に続きながら、俺達はつくづく獣道が好きだな…と半助は苦笑する。
 まぁ忍びらしい習性ではある。
 すっかり葉の落ちた木々を分け入り、しばらく山を登ると、視界の開けた一角へ出た。

 そこには、一本の紅葉の大樹があった。
 どういう理由によるのか、その一本だけが、いまだ全ての枝に葉をつけ、その葉という葉を鮮やかな紅に染めていた。
 他の木々が皆葉を落とし色褪せている風景の中で、その一本だけがくっきりと際立っている。

 「見事、だな」

 半助はしばし悲壮な決意を忘れ、その燃えるような紅に見入った。

 「でしょう?」

 そんな半助を、平太は嬉しそうに眺めている。

 「先日学園長先生に使いを頼まれた帰りに、街道からここだけくっきりと赤いのが見えたんです。それで来てみたら下から見た以上に素晴らしくて、絶対に先生を連れてこようって思ったんだ」

 そう言ってにこりと笑った。

 その笑顔に、半助は胸がきりりと痛むのを感じた。
 しかし、勇気を出して、きちんと告げなければならない。
 そのためにここへ来たのだから。

 「平太」

 改まった声音で名を呼んだ半助を、平太が首を傾げて見る。
 半助の真剣な表情に何かを察したのか、平太は姿勢を改めて半助に向き合った。

 「なんですか?」

 半助は小さくひとつ深呼吸し、そして身を切られるような痛みを感じながら、思い切って、告げた。

 「…俺達、もう、こうして会うのはやめにしよう」

 「…どういう、意味?」

 平太の表情に変化はない。

 「こうなる前の、ただの教師と生徒に戻ろう、という意味だ」

 「……それが、先生の出した答え?」

 半助は黙って、頷いた。


 平太は、しばらくじっと半助の顔を見つめていた。
 そして不意に、ふっと微笑んだ。
 決死の覚悟で告げた悲壮な決意を思わぬ笑みで返され、半助は、きょとん、と大きな目を丸くした。
 どうしてここで微笑まれるのか、わけがわからない。
 そんな半助に、平太は今度はくすくすと笑い出した。
 …ちょっと待て。
 どうして俺が笑われなきゃならないんだ。
 少し不機嫌な表情になった半助に、平太は漸く笑いを収めると、はっきりとした声で言った。

 「ねえ、先生。先生は、それができるの?」

 「……」

 どういう、意味だ…?

 「先生が何を考えてそう決めたのか、俺、わかってるつもりだよ。けど、別れなきゃとか、別れるべきとか、それ以前に、先生は俺と別れることができるの…?」

 平太は、呆然としている半助の頬に手をやり、目を細めてそっと撫でる。

 「先生、今自分がどういう顔をしているかわかってる…?先生の目、俺と別れたら生きていけないって、そう言ってるよ。辛い、苦しいって、泣いてしまいそう。それが先生の本心でしょう?それで、どうして別れることができるの。…できないでしょう?先生も、俺も。絶対に。だったら、できないことは言っちゃ駄目だよ」

 めっという風に、半助の唇に人差し指を押しあてた。

 「っでも…」

 「でも、じゃないでしょ。じゃあ、聞きます。先生は、俺と、別れることができますか?」

 平太は穏やかな顔で、真っ直ぐに半助の目を見た。

 「で…」

 「で?」

 「でき…………」


 ――半助は、がくりと項垂れた。

 ………無理だ………。

 平太の言うとおりだった。
 たとえそれが平太のためであったとしても、今の半助には、平太と別れることなんてとてもできそうにない。
 半助は、平太を好きになりすぎていた。
 自分が平太と別れたら生きていけないというのは、たぶん、真実だ。
 それくらい引き返せない所まで来ていたことに、間抜けな話だが、本人から言われて漸く気が付いたのだった。

 平太は、そんな半助を相変わらず穏やかな表情で見ている。

 「降参?」

 ふふ、と楽しそうに平太は笑い、それから、すっと顔を寄せた。
 反射的に半助の体が強張る。
 こうなる原因となったあの夜のことを思い出したのだ。
 そうだった、こっちの問題は、まだ解決してはいないのだ…。

 「じゃあ、次は、これ」

 平太は、二人の唇が触れ合う直前で、囁いた。
 吐息が半助の唇にかかる。

 「これは……?先生は、どうしたい?…したくない?…それとも、したい?」

 「…………」

 「先生…?」

 ………答えられる…わけがない………。

 半助の目が揺れる。
 唇が、言葉を紡ぐことができずに、震えた。
 平太はそれをじっと見つめてから、ふぅと息を吐き、仕方がないなぁという風に苦笑した。

 「……いいよ、答えないで」

 答えはわかったから…。そう優しく言い、静かに唇を重ねた。
 そっと舌が滑り込み、感情の昂っている半助をあやすように、緊張を溶かすように、平太はゆっくりと舌を絡めた。
 むやみに性感を煽ることのない、静かで深い、大人の口付けだった。
 こんな口付けを平太からされるのは初めてのことだ。
 口内に注がれる熱い吐息に、やはり半助の体はじんと痺れてしまう。
 それでも…。
 また平太の優しさに甘えてしまっている自分を自覚しながら、半助は目を閉じる。
 そして、じんわりとした快感と安心感の混じり合った心地よさに、素直に身を任せた。

 二人が久しぶりの口付けを十分に味わった後、平太は半助の体を包むように抱き締めた。
 そして腕の中で身を任せている半助に、静かに言う。

 「…先生。もう、卒業したらとか、そういうの、気にしなくていいから」

 「……」

 「俺の答えなんてとっくに出てるけど、先生はそうじゃないだろ?まだ、決められないでいるんだろう?俺、わかってるから。だから、待つよ。先生が、そうしたいと思ったときに、言って。半年後でも、一年後でも。もちろん、明日でも全然かまわないけどさ」

 そう悪戯っぽく付け足して、平太は笑った。


 半助は、少し驚いたように、平太を見つめた。


 この少年の強さに、一体、自分はどれだけ救われていることか。
 平太はいつも、右も左も選べずに立ち尽くしてしまう半助に、右でも左でもない、もう一つの、前へと進む道があることを教えてくれる。
 そして、半助の手を引いて、一緒に歩き出してくれるのだ。


 半助は、体中が熱い何かで満たされるのを感じた。それが愛なのか恋なのか、あるいはもっと別の何かなのか、それはわからない。ただその強い感情を半助に与えたのが、この目の前の少年であることだけは確かだった。

 離れることができるなんて、どうして思えたのだろう。

 そんな自分達のことを、七歳下のこの少年は、半助よりも遙かによく知っていたのだ。











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