「ん……」

 平太は、結局一睡もしないまま、朝を迎えた。

 鳥の声に誘われ、そっと寝床を抜け出す。
 明秀を起こさないよう注意しながら木戸を開けると、真っ白な光が網膜を刺し、眩しすぎるそれに平太は目を細めた。
 長屋はまだ寝静まっている。
 濡れ縁に腰掛け、ひんやりと冷たい早朝の空気を肺に吸い込んで、少しだけ頭がすっきりした。

 澄んだ朝の光に照らされた山の紅葉は今が盛りで、あと数日もしないで、その葉を落とし始めるだろう。

 先生と、紅葉狩りに行こうと思っていたのにな……。


 白々とした朝靄に霞む紅を茫と眺めていると、背後で明秀の起き出す気配がした。

 「眠れなかったのか?平太」

 ふわぁと欠伸をし、明秀が隣に腰掛ける。

 「わりぃ、起こした…?」

 「いや。お前、昨夜何度も寝返りを打ってたろ。俺まで寝られなかった」

 明秀は眠りが浅いのだ。
 そんなところも、忍び向きだった。

 「ごめん…」

 「別にかまわないさ。……それよりお前、大丈夫か?昨夜半助ちゃんの部屋から戻ってから、おかしいぞ」

 「ん…」

 「ま、言いたくなかったら何も聞かないけどな」

 そう言って黙って隣に座っていてくれるこの親友が、今はありがたかった。
 普段面白そうなことにはずかずか踏み込んでくるくせに、こういうときには人一倍気を払うのが明秀だった。

 平太は庭に視線を戻し、昨夜の半助を思った。

 きっと、傷ついたよな。
 一度も顔を見ずに部屋を出てきてしまったのだから。
 半助がずっと平太の方を見ていたのは知っていた。
 でも、もしあの時顔を見てしまったら…、自分を抑えられなかったんだ。

 平太は、半助が平太に対して教師という一線を引いていたいという気持ちも、それとは関係なくただ純粋に平太を求めている部分も、どちらも理解していた。平太より七歳上の半助が、大人として色々と思うところもあるだろうことも。だからこそ平太は、どんなに半助を欲していても我慢してきたし、近頃の半助の変化を知っていてもなお、半助の気持ちを大切にしたくて、気付かぬふりをしてきたのだ。
 だが、昨夜はそれができなかった。
 それは伝蔵が出張で夜の部屋に二人きりだったとか、偶々そういう条件が揃ってしまったからだとは思えなかった。そんなのはきっかけにすぎない。遅かれ早かれ、こういう日は来ただろうと平太は思う。

 どうすればいいんだろうな、俺達…。



 朝食時、予想はしていたが、食堂に半助の姿はなかった。
 もっとも、今日は午前中が教科の授業で、半助は時間通りに教室に現れた。
 例の課題を提出する際に二言三言言葉を交わしたが、半助はいつもと変わらない態度で平太と接した。
 それでもその顔には隠しきれない疲労が滲んでいて、半助も昨夜は眠っていないらしいことが見て取れた。

 授業が終わり半助が教室を出ていくと、早速、級友達の話題は半助のこととなった。

 「半助ちゃん、なんか元気なかったよなー」

 「ああ。笑ってても、疲れてる感じ。具合でも悪いのかな」

 「俺達が心労ばっかかけてるせいじゃねぇ?」

 「ええー?」

 そんな会話を聞きながら、平太は溜息をついて、窓の外を眺める。三階の教室からは、遠くの山々まで遮るものなく見渡すことができた。

 と、そこに、級友の一人がやってきた。

 「平太ー。廊下にくの一が来てるぜ。五年の可愛い子。お前に話があるって。ここんとこ、ほんっと多いよなぁ。いいよなぁ、なんでお前ばっか」

 「ああ…。今行く」

 平太は、気だるげにのろのろと立ち上がった。

 「…なんかお前、元気ないな。大丈夫か?」

 「…ああ」

 級友にまで心配されてしまった。


 それから、人目を気にするように何も言わない少女を校舎裏へ連れ出してやり、そこで案の定告白を受けた。
 出来る限り傷つけることのないよう細心の注意を払って断り、平太は食堂へ向かう。
 級友も言っていたように、最近どういうわけかこの手の呼び出しが増えた。
 昔はもう少し淡々と断ることができていた平太だったが、半助を好きになり、人を想う気持ちがどういうものか身をもって知ってしまってからは、相手が感じるのと同じ辛さをその都度平太も味わうこととなった。


 食堂に着くと、入口で明秀に会った。
 遅めの時間帯にもかかわらず食堂は混んでおり、一箇所だけ二つ並んだ空席があった。
 今まさに半助が食事をとっている向かいの席である。
 どうするんだ?という風に明秀が平太を見る。
 どうすると言われても…と入り口で立ち尽くしていると、不意に顔を上げた半助とばっちり目が合ってしまった。
 よもや回れ右するわけにもいかず、仕方なく平太はそこへ向かう。

 「あの、ここ、いいですか…?」

 いつもなら何も聞かずに座るくせに、つい聞いてしまう自分が嫌になる。

 「あ、ああ。もちろん」

 半助はにこりと笑った。

 その後は、三人、ただ黙々と目の前の食事を片づけるという奇妙な昼食となった。
 明秀はもともと口数が多くない上、間違っても話題を提供しようなどという気遣いはしない。そんな性格なので特に気まずさも感じないらしく、飄々と箸を口に運んでいる。

 ふと、平太は自分の食事の中に竹輪の揚げ物があることに気が付いた。
 と、いうことは――。
 ちらりと半助の皿を窺う。
 すると案の定、殆ど空になった皿の隅に、ぽつんと竹輪が一本のっていた。
 そういえば、半助の箸は先程から全く動いていないのだった。
 いつもなら「頼む…」と泣きついてくるところだが、今日はそれができず、だからといって食うこともできず、困り切っているのだろう。

 …はぁ…。
 まったく、世話の焼ける……。

 「先生。それ、ください!」

 平太は一方的にそう断ると、返事を待たずに半助の竹輪を箸でひょいと摘まみ上げて、自分の皿に移した。
 半助は一瞬目を丸くして呆然としていたが、すぐに、小さな声でぽそりと呟いた。

 「あ、ありがとう」

 「…もらったのは俺の方ですよ」

 怒ったような口調になってしまった。


 しばらくすると入り口の辺りが急に騒がしくなり、どやどやとは組の面々が顔を見せた。今日は揃いも揃って遅めの昼食らしい。

 「へっいたくーん!」

 と元気よく首に腕を回される。
 ったく。食ってんのが見えねぇのか、こいつら。

 「聞いたぜー、まただって?ったくいいよなぁ、もてるやつは。で?今度はOKしたのか?」

 ………。
 なんなんだ、このタイミングの悪さは……。

 「あ、土井先生!聞いてくださいよ、平太の奴、またくの一から…」

 「ご馳走様でした!」

 平太はその言葉を遮って席を立つと、黙々と自分の皿を返し、食堂を後にした。
 背後で「俺、なんか悪いこと言った…?」という級友の声と、「いや、お前は悪くないよ」と苦笑する明秀の声が聞こえたが、平太の知ったことではなかった。









<<   >>