それはいつもと変わらぬ夜だった。

 半助はいつものように夕餉をとり、いつものように湯に入り、いつものように部屋で翌日の授業の準備をしていた。
 このところ朝夕がだいぶ冷え込んできて、小袖一枚ではさすがに寒く、上着を羽織ろうかと考えたところで、聞き慣れた足音が聞こえた。
 夜なので抑えてはいるが、特に気配を隠そうとはしていない。

 足音は部屋の前でぴたりと止まり、襖越しに低く声がかけられた。

 「夜分に申し訳ありません。多紀です。土井先生にご相談があって参りました」

 「入っていいぞ」

 声を聞く前から相手がわかっていた半助は、気軽に笑って返答した。
 夜分に生徒が訪ねてくるのも、珍しいことではない。

 「失礼します」

 平太も湯上りで髪をおろし、小袖一枚だった。
 寒くないのかなと思い、それから彼が今年の猛暑の中でも平然としていたことを思い出す。
 それに比べ自分はどれだけ暑がりで寒がりなのかと、半助は可笑しくなった。

 「遅くにすみません。……あれ、山田先生はいらっしゃらないんですか?」

 「今日の午後から出張なんだ。明日の夜には戻られるよ」

 そう。
 いつもと違ったことといえば、これくらい。




 「で、私に相談って?」

 半助が聞くと、平太は数枚の紙を差し出した。

 「これ、明日提出の例の課題なんですが。各陣の配置でどうしても決められない所があって、先生に見ていただければと」

 「ああ、それか。どれ、見せてみろ」

 それは、他ならぬ半助が出した兵法の課題だった。
 半助が与えた条件を基に、実際の戦を想定して効果的な陣の配置図を作らせるというものだが、正解が幾通りもあるうえ、敢えて面倒な条件を挙げたので、今頃はどの部屋でも四苦八苦しているに違いない。


 半助は書きかけの配置図を見て、いくつか助言を与えてやった。
 それで行き詰っていた部分は解消し、平太はすっきりとした顔で部屋を出て行こうとした。

 「やっぱり相談に乗っていただいてよかった。ありがとうございました」

 「ああ。おやすみ、平太」

 「ええ、おやすみなさい」

 そう言って襖に手をかけてから、平太はふと何かを思い出したように、半助の方を振り返った。
 そして、座って平太を見上げている半助の頬に手を伸ばし、ちゅ、と口付けを落としたのだった。
 そのときも、彼はそれで帰るつもりだったのだろう。
 軽い気持ちの接吻にすぎなかったはずだ。

 だが。
 唇が離れるとき、同時に瞼を上げた二人の視線が、至近で絡まった。
 それが、きっかけとなった。

 半助の瞳に吸い寄せられるように、平太の唇が、再び半助のそれに重ねられた。
 そろりと舌が口内へと侵入し、半助の舌を絡め取る。

 「ん…」

 始めは戯れにすぎなかったそれも、幾度も舌を絡ませ合ううち、やがて互いの内に小さな火を点した。
 平太は片手で半助の首を支え、その口内を隅々まで味わうように丁寧に愛撫してゆく。時折、舌先で口蓋を擽るように刺激され、その度、びく、と半助の体は震えた。

 「…ぁ…」

 半助の口から、抑えきれない喘ぎが零れる。
 と、半助の首を支えていた手が僅かにずれ、耳の裏側を親指でそろ…と撫でられた。

 「っ…」

 瞬間、半助の体に電流が走った。
 頭の芯がじん…と痺れる。

 まずい、と思った。

 最近半助は、平太とこうしている時に抑えられなくなる自分を自覚していた。
 このまま進めばどうなるかなんて分かりきっているのに、それでもいい、このまま最後まで流されてもいいと思ってしまうのだ。
 理由は、わかっている。
 平太を想う気持ちが、あの夏の夜よりもずっと強くなっているからだ。
 平太のことを知れば知るほど、益々好きになっていく自分を半助は止められなかった。
 想う気持ちが募れば、欲しい気持ちが募るのは当然で。
 そして半助がそう感じていることを、平太が知らないはずがなかった。
 言葉にしたことはないが、こうして抱き合っていれば、わからないわけがないのだ。

 「ふ…ん……っ」

 くちゅ、ちゅく…と静まった部屋に響く水音に、耳の奥まで愛撫されているような錯覚を覚え、半助の息が乱れる。
 平太から与えられるどんなに小さな刺激にも、半助は敏感に反応した。

 体が、どうしようもなく平太を欲していた。
 いや逆だ、心が欲しているから、だから。
 自然の流れだ。
 夏が終わり、秋が来れば木々が色付くように。
 抗う方が不自然なのだ。
 それは半助にもわかっている。



 それでも――。



 (…だめ…だっ…・。このままじゃ……っ)

 ぐ、と両手で強く平太の胸を押す。
 半助は、乱れた呼吸を整えながら、体を離した。


 「………平太……、もう…部屋に…帰った方がいい……」

 平太から顔を逸らしたまま、低く言う。
 今の自分の顔を、見られたくなかった。
 そう、平太はこういう半助を知っているのだ。
 それでも、そのうえで、いつも拗ねるような切ないような目で半助を見て、その体からそっと手を引くのが常だった。

 しかし、その夜は違った。
 彼は強い力で半助の体を引き戻すと、再び腕の中に抱き込んだのだ。

 「!?」

 驚いて見上げた半助を平太は熱の篭った目で見返し、その全てを奪おうとするように、激しく口付けた。

 「んっ…待っ……へい…っ」

 抗う手を捉え、そのまま半助の体を布団に押さえつける。そして、ゆっくりとその上に自分の体を重ねた。

 「……先生の体…いつもより熱くなってる……」

 耳元で熱い吐息とともに囁かれ、半助の肌が粟立つ。
 半助はぎゅ、と目を瞑った。
 本当に……限界だった。


 「っ……駄目、だ……!!」

 気付いたときには、平太の体を思いきり突き飛ばしていた。

 「…っ」

 「……あ………、すま…ない………」

 半助は呆然と呟いた。

 嫌な沈黙が、部屋に満ちる。


 「………すみませんでした」

 平太はそう一言告げると、静かに立ち上がり、一度も半助の方を見ないまま部屋を出て行った。
 襖が閉まる間際、平太の肩越しに月明りに映えた紅葉が見えた。




 「………」

 半助は、途方に暮れて、乱れた布団の上に座り込んだ。

 悪いのは平太じゃない。
 自分が…、誘った。
 平太が謝る必要なんかどこにもないのだ。
 あんな反応を返せば、彼が抑えきれなくなるのはわかっていたはずなのに。
 今まで知らないふりをしてくれていたその優しさに、甘えていた…。


 部屋を去るときの横顔が頭から離れない。
 あんな顔をさせたいわけじゃなかった。
 生徒達の笑顔を、平太の笑顔を、半助は何より守りたいだけなのだ。
 なのに、現実はその想いとは全然違う方向へ行ってしまう。

 俺は、何かを間違えているのか…?


 それでも自分にとって平太は、恋人であり、やはり生徒なのだ。
 そして自分も彼にとって、恋人であり、そして教師でいたかった。

 けれど。
 その想いが、彼から笑顔を奪ってしまうのだとしたら――。




 半助はその夜、一睡もすることができなかった。 









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