その翌日も、半助は彩音と出かけて行った。
彩音が学園を訪ねてきた日から、一週間が経っていた。
夜になり、平太が授業の質問をしようと半助の部屋を訪ねると、そこには伝蔵しかおらず、半助は明日の朝まで戻らないとのことだった。
理由について伝蔵は一言、「仕事」と言った。
質問には伝蔵が不足なく答えてくれたが、平太の心は晴れない。
別に半助が女と出かけることが問題なのではないのだ。
だが、あの二人は――。
ふぅ…と最近すっかり癖になってしまった溜息をついて自室の襖を開けると、畳にごろんと横になり本を読んでいた明秀が顔を上げた。
「半助ちゃん、いたか?」
平太は首を振る。
「明日の朝まで戻らないって」
「朝まで?」
「ああ」
「ふぅん…」
戸口に突っ立ったままの平太に、明秀は上半身を起こし、ちょいちょいと手招きした。
「何」
「いいから、ここ座れって」
促されるままに明秀の前に座ると。
むぎゅぅ、と両手で頬を摘ままれる。
「不機嫌なのが顔に出てるぜ、平太。忍者失格だ」
「……」
「過去に何があろうと、今半助ちゃんが好きなのはお前なんだから、自信持てばいいだろ?」
「…やっぱり、そうだよな。…先生と彩音って…」
それは決して表立ったものではなかったけれど。
彩音の半助を見る眼差し、半助の彩音に対するちょっとした仕草に、単なる仲間とは別の、それ以上の何かがあるのを、平太は感じないではいられなかった。
「お前だって過去に何もなかったわけじゃないだろ。ましてや半助ちゃんは俺達より七年も多く生きてるんだ。それを今更どうこう言ったって仕方がない」
「…わかってるよ」
それが完全に過去の話ならば、平太だってこんな気分になりはしない。
だけど彩音は――。
「信じられないのか?半助ちゃんのこと」
「信じてるさ。信じてるけど……。ああもう!頭ではわかってるのにな」
頭を抱えた平太に、明秀は微笑んだ。
「初めて見るな、そういうお前。本当に好きなんだな、半助ちゃんのこと」
「…あたりまえだろ」
平太は、ごろんと仰向けに転がり、天井を見上げた。
「……俺……もっと前に……先生と出会いたかったな……」
「前?」
「先生が……俺達くらいの頃……」
「その頃俺達はいくつだと思ってる?お子ちゃまもいいとこだ。そんな頃に出会ったって、なんにもできやしないぜ?」
「それでも………」
横を向いて小さく呟いた平太の頭を、明秀の手がくしゃりと撫でる。
「関係ないさ。確かにお前は半助ちゃんのこれまでの時間を知らない。でも、半助ちゃんは今、お前を選んだんだ。大切なのはそこだろ?……平太、半助ちゃんは本当にお前のことを想ってるぜ」
「…珍しいな、お前がそんなことを言うなんて」
親友の意外な気遣いに顔を上げると、明秀は偶にはな、と笑った。
「これで無事終了、だな。お疲れさま」
真っ白に霜がおりた土の上にトンと降り立ち、半助は微笑んだ。
朝靄が、凍った木々を覆っている。
「ええ。ありがとう。半助がいなかったら、どうなっていたことか」
「あはは、大袈裟だな」
「あら、本当よ。教師になってるなんていうから腕が落ちてるんじゃないかって心配したけど、無用だったわね」
「教師っていっても、六年なんて、油断してるとこっちがやられそうになるからなー」
今頃は布団の中でぐっすり眠っているだろう生徒達の顔を思い出して、半助の口元が綻ぶ。
「半助、本当に楽しそう。教師の仕事が好きなのね」
「ああ、楽しいよ」
「…あの子がいるからじゃなくて?」
急に声を落とした彩音を、半助は怪訝な顔で見た。
「あの子?」
「多紀平太くん」
「……」
「初めて半助が彼と話しているのを見たとき、本当に驚いた。半助のあんな顔、私、見たことなかったもの」
「あんな顔って…」
「大切で仕方がないっていう顔」
「……」
「ねえ、半助。今回の話、人手が足りなかったのは本当だけど、誰でもよかったわけじゃないの…。私、あなたに会いに来たのよ」
「彩音、俺は…」
「ああ、違うのっ。心配しないで。今更どうこうってわけじゃないんだから」
彩音は半助の言葉を遮り、笑って片手を振った。
「私ね、来月結婚するの」
「結婚?」
「うん。忍びじゃないけど、私だけを想ってくれるすごーく優しい人よ。…でも、どうしてかしらね。その前にどうしてももう一度半助に会っておきたくなったの。ほら、ご存じのように、私はずーっとあなたのことが大好きでしたから!」
彩音は大きな目をおどけるようにくるりとまわした。
それから、少しだけ落ち着いた声で言う。
「こんな話するつもりじゃなかったのに、なんかごめんね。明日帰る前に、学園のみんなにご挨拶に伺うつもり。大事な“土井先生”をしばらく借りちゃったから、ね」
彩音はそれだけ言うと、半助に何も言う間を与えず、おやすみなさい!と手を振り、去って行った。