翌日は朝から小雪が舞っていた。
 午後遅く、彩音は山ほどの菓子やらつまみやら、さらに酒を持って忍術学園に現れた。

 「みんな、遠慮しないでどんどん食べてねー。みんなの先生をお借りしちゃったお礼よ」

 六年長屋の一室で、は組の面々は大喜びでそれを囲んだ。

 「わー、いいんですか?彩音さん!」

 「先生なんかでよかったらいくらでもどうぞー」

 生徒達は言いたい放題である。

 「おい、今言ったの誰だ?あ、そこ!それは茶じゃなくて酒だ!……彩音ー、どうして酒なんか持ってきたんだよ」

 ひどい言われようにツッコミを入れたり、酒に手を出す生徒に注意したりで、半助は大忙しである。

 「あらぁ、だってみんなもう十六歳でしょ?明日はお休みなんだし、ちょっとくらいいいじゃない」

 「ここは学校だ!」

 「半助ってばあいかわらず真面目なのね〜。仕方ないから、先生の言うとおりにしましょう。はいっ、彩音姉さんがお茶をついであげるから、みんな湯呑もって並びなさい!」

 何やってんだか…と呆れる半助の前で、は組の生徒たちは素直に列を作って彩音から茶を注いでもらっている。

 「あー、彩音さんについでもらう茶はうまいなぁ!」

 「ほんとほんと!」

 「ね〜彩音さん!彩音さんは先生の昔のことを知ってるんでしょう?教えてくださいよ。先生、ぜんぜん話してくれないんだもんなぁ」

 「ふふ、どーしよっかなぁ♪」

 「こら彩音!お前達も調子に乗るんじゃない!」

 と、そのとき。
 彩音の手が滑り、ゴトンッと急須が畳の上に落ちた。
 入れたばかりの湯が彩音の手をぱしゃりと濡らす。

 「っつぅ…っ」

 眉根を寄せ手を押さえた彩音を、半助は呆れ顔で見た。

 「お前、ほんとにくノ一か?」

 「わ、わるかったわね鈍臭くて!」

 「ドジなところは昔のまんまだな。ほら、こっち来い。冷やしてやるから」

 「…ん…ごめん…」

 半助は襖を開け、濡れ縁に積っていた雪を手拭いに包むと、それを赤くなった彩音の手の甲にそっと押し当ててやった。



 その様子を生徒達は部屋の内側から眺め、こそこそと囁き合う。

 「なんか…すごいお似合いだな…、あの二人…」

 「元カノっていうより、これはひょっとしたらひょっとするんじゃね…?」

 平太は同じようにその光景を眺めながら、小さく息を吐いた。
 それは平太から見ても、実にしっくりくる光景だったからだ。





 やがて陽が暮れ、茶だか酒だかもう滅茶苦茶になってしまった室内は、すっかりどんちゃん騒ぎとなっていた。
 半助ももう注意するのを諦めたのか、「俺はちょっと向こうで仕事してくるけど、お前達、ほどほどにしとけよ」と言い残して、部屋を出て行った。もっとも学園長や他の教師も何も言ってこないところを見ると、一種の社会勉強とでも思っているのかもしれない。
 そんな級友達を一人壁に背を預け平太が眺めていると、彩音が輪の中から出てきて、急須片手に近付いてきた。
 足元がだいぶふらついている。

 「ねぇ、君!平太くん!」

 「なんですか?俺は酔っ払いは嫌いなんですが」

 「ほー、言うじゃない。はいっ、彩音さんのお茶、君まだ飲んでいないでしょう!」

 ぐい!とものすごい力で無理やり湯呑を持たされ、茶を注がれる。

 「…馬鹿力」

 「なんか言ったぁ!?」

 「いえ」

 これだから酔っ払いは…と思いながら茶を啜った瞬間、平太は噴き出しそうになった。
 って、これ酒じゃねーか!
 平太が顔を顰めていると、横から視線を感じた。
 見ると、彩音がじぃ……とこちらを凝視している。

 「……俺の顔がどうかしましたか?」

 「…見れば見るほど、いい男ねぇ。君、モテるでしょう?」

 「別に」

 「謙遜するだけ嫌味よ。あの明秀って子も相当モテそうよね。今日はいないの?」

 「さぁ」

 明秀は今頃美弥とデートである。

 「ふぅん。ま、いいわ。私は君の方が好みだし。ねぇねぇ、教えてよ。学校って、よく草紙に出てくるみたいに、下駄箱に恋文が入ってたりするの?校舎裏で告白されちゃったりとか?」

 ほんと、変な女。
 平太が無視していると、馬鹿力で胸倉を掴まれた。

 「クールにしてないで答えなさい!」

 「くっ…くるし……」

 「されたことあるの!?ないの!?」

 こ、この暴力女…!
 薄くなる酸素に頭が茫となりながらなんとか平太が頷くと、彩音はきゃ〜!と両手で自分の頬を押さえ顔を赤らめた。

 「素敵〜!ロマンチック〜!」

 なんなんだ一体…。
 しかし、続いて彩音がほぅと息を吐きながら呟いた言葉に、平太ははっとした。

 「私、学校って通ったことがないから、そういうの本当に羨ましい」

 そういえば、以前記憶を失っていたときに、半助も同じようなことを言っていた。

 「私と半助はね、同じなのよ。子供の頃に家族をなくして、一人で生きてきた。毎日生きることに必死で、学校なんて行き方もわからなかったし、そもそも考えたこともなかったわ。そんなだもの。女が生き抜く方法を覚えるのなんか、あっという間だった」

 意味、わかるでしょう…?
 彩音は、唇が触れ合うほど近くで、そう囁いた。
 生温かい吐息が平太の顔にかかる。
 平太が至近から彩音の目を見返すと、彩音はくすりと笑って体を引いた。

 「…顔色ひとつ変えないなんて、ほんっと可愛くない。君、もう女を知ってるのね」

 「……」

 「その不遜な態度、半助とは大違い。半助はね、すーっごく優しかったわよ」

 酒が回った級友達は、平太と彩音のことなど気にしていない。
 この部屋の中で、二人の周囲の空気だけが冷めていた。

 「君も覚えておくといいわ。女ってね、本当に好きな相手に抱かれた時の気持ちは、ずっと消えないものなの」

 「……」

 「私、あれからどんな男と寝ても、二度とあんな気持ちにはなれなかった」

 それから彩音は平太の目をじっと見て、ゆっくりと言った。

 「…半助に、抱かれたときみたいな」

 「あんた、さっきから何が言いたいわけ?」

 それは自分のものとは思えないほど冷たい声だった。
 だが、彩音の顔色は変わらない。

 「私が言いたいことは一つだけ。君と半助は、生きてきた世界が違うってことよ。温かな家族に守られてきた君に、半助を理解することなんかできない。この世界で互いの体温以外に信じられるものがない、あの感覚が君にわかる?…それだけじゃない。私はずっと一人だった彼に家族を与えてあげることができる。君には、絶対にできないことよ」

 平太は無言で立ち上がり、部屋を後にした。




 木の幹にぺたりと熱い額を押し付け、平太ははぁ、と息を吐いた。
 凍った木の皮の感触が、急速に平太の熱を冷やしていく。
 まだそう遅い時間ではないが雪の積もり始めた裏庭に人影はなく、漆黒の空からちらちらと降りてくる雪が、闇を薄く照らしていた。

 ………。
 何動揺してんだよ、俺……。
 大事なのは半助が俺を選んだことだと、明秀は言っていた。

 だけど――。

 平太は、自分がひどく傷ついているのを感じていた。
 髪に、肩に、みるみる雪が降り積もっていく。
 平太は、記憶をなくしていたときの半助を思った。
 あの雪の夜、半助は、“母上”と呼んだのだった。
 恐怖と絶望と諦観がない交ぜになった虚ろな目で――。

 そういえば、半助はまだ過去の話をしてくれていない。
 話しても、理解できることじゃないからなのか……?







 「終わったぁ!」

 紙束の積み上がった机の前で、半助は、ん〜っと伸びをした。
 少しの間だけ抜けるつもりが、部屋に戻ると思いのほか仕事が溜まっており、ひと段落ついた頃には随分時間が過ぎてしまっていた。

 先刻よりもだいぶ積もった雪を踏みしめながら六年長屋へと歩いていると、裏門の方へ向かう人影が見えた。
 半助は足を止める。

 「平太…?」

 だが平太はあの部屋にいるはずだし、今頃こんな雪の中を出ていく理由などない。
 見間違いか…?
 首を捻りつつ皆のいる部屋の襖を開けると――。

 「おお〜、半助ちゃんじゃ〜ん!」

 「どこ行ってたんだよ〜。さびしかったぜ〜」

 「ほら、こっち来て飲め!」

 「俺のつぐ酒が飲めないってかぁ〜?」

 呼び名も敬語もすっかり忘れて、真っ赤になってケラケラ笑っているは組の面々。

 「お前ら………。飲みすぎだろ!!!」

 泣く子も黙る忍術学園教師の怒号も、酔っ払いどもには効果ゼロ。

 「半助ちゃん、こえ〜〜〜!ぎゃはは!」

 ばか笑いが返ってきただけだった。

 「ったく……」

 酔っ払いは相手にするのを諦めて、半助は部屋の中を見回す。
 と、部屋の隅で、一人ぼんやりと座っている彩音を見つけた。

 「彩音ぇ?おい、大丈夫か?」

 肩に手を置くと、彩音はゆっくりと半助の方に視線を向けた。

 「半助ぇー、どこ行ってたのよぉー」

 「どこって、仕事してくるって言ったろ?ったく、お前酒弱いくせに、飲みすぎだ」

 「放っといてよ。飲みたいときがあんのよ、女には」

 「何だよそれ、、、。ほら、ちょっと外の風にあたれ。立てるか?」

 「んー」

 よろよろと足元の覚束ない彩音を半ば抱えるようにして、半助はどうにか外へと連れ出した。

 「わぁ〜、雪ぃ〜」

 彩音は半助の手を離れ、空から降る雪を捕まえるようにくすくす笑いながら両腕を伸ばした。

 「冷たくて気持ちいー」

 「この酔っ払いが…。なぁ、お前、平太がどこに行ったか知らないか?部屋にいなかったみたいだけど……」

 「へいたくん…?」

 と、ふらり、と彩音の足がもつれる。

 「あぶな…!」

 地面に倒れる寸前で、半助は彩音の体を腕に抱きとめた。
 ふぅと息をつき、腕の中の顔を覗き込む。

 「大丈夫か?」

 「……」

 「どうした?気持ち悪いのか?」

 何も言わない彩音に問い重ねると、彩音の手がゆっくりと上がり、ぎゅぅ…と半助の背にしがみついた。

 「…彩音…?」

 「……接吻…して……」

 下を向いたまま、小さな声で、彩音が言った。

 「…何、言って」

 「お願い!」

 半助を見上げた彩音の目から涙があふれる。

 「…結婚の話は、ほんとう。彼、とても優しい人で…、この人とならやっていけるって…心からそう思ったの。でも…」

 彩音の顔がくしゃりと歪んだ。

 「でも…、どうしても半助のことが忘れられなかった……。あなたが私のことなんとも思ってないのは、わかってるのに……」

 「……」

 「だから私、半助にさよならしに来たの…。……この気持ち…全部ここに置いていくから……。最後のお願い………聞いてよ…・」

 「……そんなことしても、お前が辛いだけだろう…?」

 「それでも私には必要なの!…できるでしょう?…一度は……抱こうとしたんだから……」

 彩音がまっすぐに半助の目を見る。

 「……お願い……」

 「……」

 彩音の瞼が静かに閉じられ、青白い頬に雪が降りては溶けていく。
 半助の記憶の中の同じ顔が、それに重なった。

 頬にそっと手を添えると、彩音の肩が微かに震えた。
 半助はゆっくりと顔を寄せ。

 額に、ちゅ、と小さく口づけた。

 「……え……?」

 彩音の目がぱちりと開き、きょとんと半助を見上げる。
 さっきまでとは全然違う子供のような顔に、半助は微笑んで涙で濡れた頬を両手でごしごしと拭ってやった。

 「ごめんな。これ以上はできない」

 「……」

 「俺には、全部をかけて守るって決めた人がいるんだ。自分の命よりも大切な。どんな理由があっても、あいつを悲しませることを俺はしたくない」

 彩音は、しばらくじっと半助の顔を見つめていた。
 だが、やがて諦めたように、静かに微笑んだ。

 「うん……、わかった…。そうだね……。それでこそ、私が好きになった半助よ」

 そう言って、今度はまっすぐに半助の目を見て笑った。
 その笑顔は、半助の知ってる、半助の一番好きな彩音の顔だった。

 「………実はね、あの、ものすごく言いにくいんだけど……」

 急に、彩音の声が小さくなった。
 半助は首を傾げる。

 「何だ?」

 「怒らない…?」

 「内容による。いいから言ってみろ」

 「なんか口調が先生になってるわよ、半助」

 「お前が生徒みたいだからだ」

 「…………実は…」

 そして彩音は、先刻平太に対して言ったすべてを打ち明けた。

 「あいつにそんなことを言ったのか?」

 「ごめんなさい!!!だって、あんまり半助が愛おしそうにしてるから、つい……。私、どうかしてた。本当にごめん!!!」

 がばぁっと土下座しそうな勢いで謝られ、ついじゃないだろついじゃ…と半助は溜息をついた。

 「俺、あいつを追わないと」

 「うん、行って。私も、もう行くね。仕事手伝ってくれたのに、迷惑ばかりかけて、本当にごめんなさい」

 「彩音。…幸せに、なれよ」

 自分にはそれしか言えないけれど、半助は、心からそう言った。

 「うん、ありがとう。半助もね」





 駆けていく後ろ姿を見送りながら、彩音はふ、と息を吐いた。

 「…あーあ、同じ相手に何度も失恋して。私ってほんっと馬鹿みたい」

 それでも自分は半助のことがやっぱり大好きで。
 この気持ちをここに置いていくのは、正直無理そうだけど。
 それでも、何かがふっきれた自分を、彩音は感じていた。
 戻ろう、待っていてくれるあの人の所に。
 こんなばかな女をもらってくれるのは、きっとあの人くらいだから――。









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