翌日の昼前。

 半助は、平太の母親と二人、囲炉裏を囲んでいた。
 平太は母親に頼まれ近所へ使いに出ており、戻ってきたら一緒に出発することになっている。

 「それで、親の私が言うのもなんですが、誰に似たのかあんなに格好いい子に育ってしまって。近所でもよく言われるんですよ、お宅の平太君、ほんとに素敵ね〜って。…あらやだ私ったら!ごめんなさいね、先生にこんなお話をしちゃって!」

 「いいえ。平太君は、学園でもとても女の子達に人気がありましたよ」

 「あら、やっぱりそうでしたか?おほほっ」

 「ははは…・・」

 卒業式の父兄達との歓談で“親ばか”話に付き合うことにはすっかり慣れてしまった半助だったが、多紀家の“親ばか”は筋金入りであった。まあそれだけ平太が愛されているということなのだが。
 しかしこれも仕事のうち、と半助が根気よく話に付き合っていると。

 「…ですが、突然忍術学園に入りたいって言われたあのときは、さすがに驚きましたわ」

 おや、と半助は興味を引かれた。
 平太が忍者になろうと思ったきっかけを、半助は聞いたことがなかったからだ。

 「彼は、自分から忍者になりたいって言ったんですか?」

 「ええ、そうです。うちの子から聞いていませんか?」

 「いえ」

 「そうですか…。あの子は今でこそああですが、子供の頃はとても体が弱く、病気ばかりしている子だったんです。外見も可愛らしくて、いつも女の子と間違えられていました。といっても性格は今と同じで、負けん気の強い子でしたが。…それが、ある日外出から帰ってきたら、突然“忍者になりたい”って言ったんです」

 そのとき、どこからか風が吹き込み、桜の花弁が一片、ふわりと半助の膝の上に舞い降りた。







 * * * * *







 「じゃあな、じっちゃん!ありがと!」

 「ああ、母さんによろしくな」

 「おう!」

 平太は、もらった野菜を一杯に積んだ竹籠を小さな背に背負い、元気にぶんぶんと手を振った。


 さて、と。

 彼は、目の前にある二つの道を見た。
 右に行けば遠回りだけれど、人通りの多い大きな道。
 左に行けば近道だけれど、完全な山道である。
 親には山道は危険だから絶対に通ってはいけないと繰り返し言われていた。
 が。
 平太は迷うことなく、左へ進んだ。
 親には内緒だが、いつも使っている道だった。


 まだ風は冷たいけれど、小さな新芽や山菜が次々顔を出すこの季節。
 山の中には平太の心を浮き立たせるものが、いっぱいあった。
 平太は生まれつき体が弱く、病気になりやすかった。
 しかし決して力が弱いわけではない。
 近所の子供達との喧嘩でも、一度も負けたことはなかった。
 父ちゃんも母ちゃんも少し心配しすぎだと、いつも平太は思う。
 そんなことを考えながら雪解けの小川のせせらぎを覗き込んでいると、背後でガサリと音がした。
 はっと振り返ると、この辺では見かけない風体の男が二人、少し驚いたように平太の方を見ていた。

 一人の男が高く口笛を吹く。

 「お前、この村の餓鬼か?」

 「……」

 男達の顔には、下卑た笑いが浮かんでいた。
 平太は、これは村の大人達がよく話している“山賊”というものではないか、と思った。

 「へへっ。まさかこんな田舎にこんな上玉がいたとはな」

 「こいつは相当ふっかけられるぜ。これぐらいの年の女が一番高く売れる。しかも、この顔だ」

 平太は、男達の言っている意味がわからない年齢ではなかった。
 こいつらは、人攫いだ。
 自分を攫って、どこかへ売ろうとしているのだ。
 平太は右手で土を掴むと、ばっと男達の顔へ向けて投げつけた。

 「ぶっ!!!てめぇ、なにしやがる!!」

 男達がひるんだ隙に、平太は一目散に表通りめがけて駆けた。
 しかし、大人と子供の足の差は歴然で、あっという間に捕らえられてしまう。

 「畜生!離せよ!!離しやがれ!!」

 手足をむちゃくちゃに動かして暴れるが、男達の手はびくともしない。

 「ちっ、気の強ぇ餓鬼だぜ。………ん?」

 片方の男が、何かに気付いたように平太の体をじっと見た。

 「なんだ、どうした?」

 「いや…。こいつ、男じゃねぇか…?」

 「まさか」

 「俺が何年この仕事やってると思うよ。間違いねぇって。お前ぇ、ちょっとこいつの足押さえてろ。確認すっから」

 指示されたとおり、もう片方の男が平太の両足を掴み、ぐいっと左右に開く。

 「やっ、やめ…!」

 足の間に入り込んだ男は平太の着物の裾を摘まむと、抵抗する姿を面白がるようにゆっくりと捲りあげ、中を覗き込んだ。

 「……やっぱりな。男だ」

 「まじかよ。随分可愛らしい子だな」

 平太はかっと顔に血を上らせ、男達を睨み上げた。

 「ん?なんだ、怒ったのか?そんな顔したって可愛いだけだぜ」

 「で、どうするよ。連れてくのか?」

 「ったりめーだろ。顔だけじゃねぇ、見ろよこの肌。これだけの上玉なら、女より高く売れるぜ。世の中いろんな趣味の奴がいるからな」

 「なら、その前に、さ…」

 「ん?やりたいってか?好きだねぇ、お前ぇも」

 「なんだよ、お前だってやりてぇくせに。こんなの、滅多にやれねぇぞ」

 「へへっ」

 太い手が着物にかけられ、平太はびくりと体を震わせた。

 「触んな!!!」

 「なんだ?震えてるじゃねーか。怖いのか?」

 「大事な売り物だからな、傷つけちゃ意味がねぇ。おい、坊主。お前ぇだって痛い思いはしたくないだろ?なら大人しくしてな……」

 帯が解かれて、体から着物が滑り落ちる。
 恐怖と怒りと悔しさとがない交ぜになって、とうとう平太の目からぽろぽろと涙が零れ落ちた。

 「ぅ…うぅ…っ」

 「お、泣いちゃったぜー?」

 「へへ。涙ぽろぽろ零して、可哀そうになぁ。今から俺達が可愛がってやるからな」

 じっとりと体に触れた掌に、平太は最後の力を振り絞って全身で抵抗した。

 「離せ離せ離せー!!!!!」


 ――そのとき。


 風のようなものが平太の前髪を掠り、ぱっと目の前に真っ赤な水が飛び散った。
 呻き声と共に、平太の体から男の手が外れる。
 見ると、男の手には黒々とした針のようなものが突き刺さっており、そこから血飛沫が上がっていた。
 平太は呆然とそれを見つめた。

 「…な、なんだ!!?」

 混乱した男が振りかえると、片割れの男の姿がない。

 「お、おい…!…ふ、ふざけるなよ。どこへ行った…!?」

 だが、辺りはしぃんと静まり返っている。

 あ――。

 平太は、少し先の木の上に、その姿を見つけた。
 だが、そこにいるのは一人ではない。
 黒装束の、覆面の人間の腕の中で、山賊の片割れはぐったりと力を失っていた。
 混乱していた男も、ようやく平太の視線の先に気付く。

 「な、なんだてめぇ…。そ、そいつを離せ!」

 黒装束は、言われた通りにぱっと両手を離した。
 途端、山賊の体はどさりと木から落ちる。だが、完全に気を失っているのか、その体はぴくりとも動かない。

 「――お前、死にたいか?」

 覆面の内側から聞こえたのは、思いのほか若い男の声だった。
 静かなのに、よく通る声だ。

 「な…、何言って…」

 一方、山賊の声は完全に震え上がってしまっている。

 「死にたいかって聞いてるんだ」

 落ち着いた声音は、却って聞く者の恐怖を増す。
 山賊の体が、がたがたと震えだした。

 「死にたくなかったら、今すぐこの男を連れて去りな」

 「…う……うわぁぁああああ!!!」

 山賊は、片割れをその場に残したまま、一人絶叫を上げて転げるように走り去ってしまった。

 「ちょ…っ。おい!こいつを連れてけって!おいってば!!…………どうすんだよ、これ…」

 黒装束はふぅと溜息をついて木から下りると、足元に転がった山賊の体をこつんと蹴った。そして、仕方がないなぁと装束の内側から取り出した麻縄でその手足をぐるぐると縛り上げる。

 「あいつが拾いに来てくれるまで、ここで寝てな。……さて」

 そこでようやく、黒装束は平太の方へ顔を向けた。
 じっと無言で見つめている平太に、唯一見えている大きな目が優しく微笑む。

 「大丈夫か?」

 男は、乱れた平太の着物を丁寧に整えてくれた。

 「…あんた、誰?」

 助けてくれた相手に最初に言う言葉ではなかったが、平太は、この人間が誰なのか、どうしても知りたかった。
 だから、聞いた。
 男はちょっと驚いたように目を丸くして、それからくすくすと笑った。
 気分を害してはいないようだ。
 しかし質問に答えることなく、はっと後ろを振り返った。

 「人が来る」

 え?
 平太には誰の姿も見えないし、何の音も聞こえない。
 だが男は困ったように、頭を掻いた。

 「ごめんな、これ以上人に姿を見られるわけにはいかないんだ。じゃあ、な。これからはこんな山道を一人で歩くんじゃないぞ」

 そう言って平太の頭をくしゃりと撫で、男はふっと姿を消した。
 また師匠に叱られる〜と独り言のように呟きながら――。



 「平太!」

 それから間もなく、男が姿を消した方角から、じっちゃんが現れた。

 「じっちゃん!」

 「お前、山道は通っちゃならんとあれほど言ったじゃろうに!」

 ごつんっと殴られる。

 「いて!」

 「婆さんがお前がこっちの方角に歩いていくのを見たというから、心配で追っかけてきたんじゃが。…ん?なんじゃ、お前。泥んこじゃないか。何かあったのか?」

 「……じっちゃん。ここに来る途中で、誰かに会わなかった?」

 「誰か?いや、誰にも会っとらんが」

 「真っ黒な服で、真っ黒な覆面をした男の人だよ。見なかった?」

 途端に、じっちゃんの顔が顰め面になった。

 「それは忍び装束じゃないか」

 「忍び…?」

 「忍者のことじゃ」

 「忍者?…あれが、忍者…?」

 草紙の中では知っていたが、実物を見たのは初めてだった。

 「お前さん、忍者を見たのか?あ奴らがこの辺りで動いとるということは、また戦が始まるのかのう…」

 いやはや物騒なことじゃ…とじっちゃんは顔を歪めて首を振った。
 だが、そんな年寄りの嘆きなど、今の平太の耳には入っていない。


 “忍者”―――。


 「……じっちゃん……」

 地の底から響くような声に、じっちゃんはたじろいだ。

 「な、なんじゃ?」

 平太はまっすぐにじっちゃんの顔を見上げ、きっぱりと言った。

 「どうすれば、“忍者”になれるんだ?」







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