「あの山を越えれば、すぐですよ」
例年より早い春の訪れにすっかり桜色に染まった山を指差して、街道まで出迎えてくれた恋人はにこりと笑った。
半助は今、平太の郷里の伊勢にいる。
平太から春休みの予定を聞かれたのは、卒業式の翌日。
両親と共に学園を発つ前に、半助の部屋へ挨拶に訪れたときのことである。
「春休みの予定?」
「ええ」
「んー、新学期の授業の準備…ぐらいかな。他に特に予定はないが、どうしてだ?」
「それなら、俺の家に来ませんか?」
何でもないことのようにさらりと告げられた突然の誘いに、半助は面食らった。
「お前の家…って、伊勢にか?どうしたんだよ、急に?」
「半助に、俺の郷里を見てもらいたくて…」
そう言って、卒業したばかりの恋人は少し照れ臭そうに笑った。
「………」
平太の郷里、か――。
いいかもしれない。
いや、見てみたい、と思った。
彼の生まれ育ったその土地を。
「…新学期の準備を終えた後でも、構わないか?」
半助の返答に、ぱっと平太の顔が輝く。
「もちろん!両親も喜びます!詳しいことは、また連絡しますね!」
「…え、両親って…」
だが平太は半助の呟きには気付くことなく、嬉しそうにばたばたと正門で待つ両親の元へと駆けて行ってしまった。
……両親……?
考えてみれば、当然だった。
つい自分と同じに考えてしまいがちだが、平太の家に行けば、当然そこには家族がいるのである。
平太の両親とは、昨日の卒業式で半助も挨拶を交わしたばかりだ。
明るくて気さくな、良い両親だった。
だが――。
「荷物、持とうか?」
「…え…?」
意識が過去へと飛んでいたため、反応が少し遅れてしまった。
その間に、半助の荷物はさっさと平太の手へと移される。
「あ、すまん。……ところで、平太」
「ん?」
「お前、俺が今日訪ねること、ご両親には何て言ってあるんだ?」
「もちろん、俺の大事な人を紹介するって」
「…はあ!?…ばっ、何てことを言うんだよ!!」
あまりにあまりな返答に、半助はぐいっと平太の襟首を掴み上げ、がくがくと揺さぶった。
「ぐぇ……!う、嘘だよ!冗談だって!!」
「……冗談?」
半助は大きな目をぱちりと瞬くと、ぱっと両手を放し、はぁぁぁと脱力した。
まったく……。
卒業してもこういうところはちっとも変わらない。
「ったく、変な冗談言うなよ。びっくりしただろ!」
「出張のついでに寄るらしいって言ってありますから、大丈夫ですよ。―――あ、あれがうちの村です」
満開の桜道を抜けたその先に、小さな集落が姿を現した。
春の陽気に包まれた家々はなんとも穏やかで――。
「………」
……なんか、見たことがあるような……・・。
「何もない田舎でしょう?」
急に黙り込んだ半助をどう思ったのか、平太が苦笑する。
「あ、いや…。のんびりした良い所だな」
「ええ。京のような街ではありませんが、山も川もあって、子供の遊び場には困りません」
山を下り村に入ると、意外に小さな店が沢山あり、活気に溢れていた。
知り合いらしき人々と言葉を交わしながら歩く平太を隣で見ていると、ここが彼の故郷なのだということが改めて感じられ、半助は温かな気持ちに包まれた。
「ここです。ちょっとここで待っていてもらえますか?」
平太は一軒の家の前で立ち止り、半助をその場に残して一人だけ中へと入って行った。
戸の内側から何やら話している気配がしたかと思うと、先日会ったばかりの平太の母親が笑顔で顔を見せた。
「土井先生、ようこそいらっしゃいました。さぁさぁ、どうぞ中へ」
「今夜はお世話になります」
「何をおっしゃいますか!忍術学園の先生方にはこの子がどれだけお世話になったことか…」
「母さん、挨拶はもういいだろ」
母親の言葉は、苦笑した平太により遮られた。卒業式の日に散々繰り返されたこの挨拶が再び始まりそうな気配を感じ取ったのだろう。
母親もはたと気づいたように苦笑する。
「ああ、そうね。先生、どうぞ中へ。今お茶をお入れしますね」
それからお茶を飲みつつ母親と学園のことや村のことなどを話しているうちに、旅の疲れもだいぶ取れ、日が暮れるまではまだ少し時間があったため、半助は平太と散歩に出ることにした。
平太の家に泊まるのは今夜一泊だけで、明日には帰る予定である。
そう何日もお世話になるわけにはいかないし、なにより春休みは短い。新学期に間に合うように戻るためには、そうゆっくりはしていられないのである。
平太は、村はずれの小高い丘の上へ、半助を連れて行った。
そこからは西日に染まった村と山々を遮るものなく見渡すことができ、忍術学園の裏山に少し似ているな、と半助は思った。
「この辺で、子供の頃よく遊んでいたんです」
「へぇ」
どうやらこの恋人は、昔からこういう場所がお気に入りだったようだ。
丘を元気いっぱいに駆け回る幼い彼を想像し、半助の顔が自然と綻ぶ。
さぞ可愛らしい子供だったことだろう。
「ここに半助がいるなんて、なんか、変な感じがする」
平太が、目を細めてしみじみと半助の顔を見た。
「そうか?」
「うん。でも、すごく嬉しい…」
手首を引かれ、そっと抱き寄せられる。
「…人が来たらどうする…」
「俺は構わないよ」
「俺が構う」
「来たら、すぐに離すから…」
「……」
半助はすこしの間考え、それから黙って体の力を抜いた。
いつもより甘やかしたくなってしまうのは、彼の郷里にいるせいだろうか。
想像でしかないはずの少年の姿が、半助の中で鮮やかに浮かんでは消える。
しばらくして、遠くから人の気配が近づいてきた。
す、と平太の腕が離れる。
そのタイミングに、半助は満足げに口元を上げた。
半助が気配に気付いたのとほぼ同時に、平太も気付いたということだ。
くつくつと笑う半助を、平太が不思議そうに見る。
「なに?」
「いや。頼もしい忍びになったものだな、と思ってさ」
半助が目を細めると、平太は照れたように顔を赤くした。
まもなくして、春らしい華やかな色の着物を着た少女が三人、姿を現した。
その中の一人がこちらに気付いて、ぱたぱたと駆け寄ってくる。
「兄貴!」
…兄貴…?
少女はきらきらした目で平太を見、それから隣にいる半助を見上げた。
もしやこの子は。
「土井先生ですよね?はじめまして!いつも兄からお話をうかがってます!」
と、平太が隣から少女の頭を軽く小突く。
「こら、舞!自分の名前も言わないで失礼だろ。先生、これ、妹の舞です。すみません、落ち着かない奴で…」
「あぁ、やっぱり。お前にそっくりだから、すぐにわかったよ。はじめまして、舞ちゃん」
半助が笑いかけると、舞も嬉しそうに顔を綻ばす。
かなりの美少女である。
だが顔立ちは似ていても、平太の女装であるおタキちゃんとは纏う空気が全く異なるのは、まだ舞が幼いせいか、あるいは性格の違いによるのだろうか。
そんなことを考えていると。
「平太さん、こんにちは!」
舞と一緒にいた二人の少女が、平太に声をかけた。
どうやら知り合いらしい。
「千春ちゃんに結ちゃん。ひさしぶりだな」
「舞から平太さんが家に戻ってるって聞いて嬉しくて、会いに来たんですー」
「二人とも綺麗になったな。誰かと思ったぜ」
「えー、やだぁ〜!そんなことありませんよ〜」
二人は桜色に頬を染めて、嬉しそうに平太と話を始めた。
…よく照れもせずにあんな台詞が言えるよな。
半助はそのきゃらきゃらした空気にふんっとそっぽを向き、だがすぐに、いやいや妹さんの友達に嫉妬をしてどうする、と思い直した。
そして、再び周囲の山々に目を向けた。
だいぶ日が陰り、冷たくなり始めた風が半助の髪を揺らす。
…………。
……この、場所……・。
再び微かな既知感が、半助を襲った。
「――んせい。先生」
平太の声に、はっと半助は我に返った。
「あ…」
「大丈夫ですか?ぼうっとして…。寒くなってきたし、そろそろ家に戻りましょう」
平太の手が自然に半助の背にまわされる。
その温かな体温に不思議なほどの安堵を与えられ、今まで半助を捉えていた微かな違和感は、いつしか意識の外へと消えていった。
その夜は、舞の友達も交え、賑やかな夕食となった。
そして彼女達が帰ったのと入れ違いに仕事から戻った父親(城勤めの役人である)に今度は上機嫌で次々と酒を勧められ、さすがの半助も少し頭が茫としてきたあたりで、平太により助け出された。
「先生、お風呂の用意ができましたからどうぞ」
案内された風呂場で、半助は壁に背を預け、ふぅと肺から熱い息を吐いた。
……ちょっと飲みすぎたかな……。
半助の頬に、ひんやりと冷たい手があてられる。
「すみません、限度を知らない親父で…。具合、悪くない?」
「ん…。大丈夫だよ。賑やかなご家族だな。こういう空気って慣れないからなんかくすぐったかったけど、楽しかった…」
半助がくすくすと笑うと、平太はなぜか少しだけ真面目な顔で半助の顔を見た。
「…酒を飲んだ後なんだから、あまり長く入るなよ。着替え、ここに置いておくから」
そしてゆっくりと重ねるだけの口づけを落として、平太は風呂場から出て行った。
ちゃぷんと温かな湯に浸かりながら、頭に浮かぶのは平太の家族の顔。
明るくて親切な、良い家族だと思った。
そして良い家族であればあるほど、自分と平太の関係がこの家族に与えるであろう影響を半助は考えないではいられない。
一家の長男が何を期待されているか、どんな責任を負っているか、知らない半助ではなかった。
……ふぅ……。
ぶくぶくぶく。
顔半分まで湯に浸かった半助の溜息は、いくつもの泡となり、はじけて溶けた。
風呂から上がり、客間に用意された布団の上でぼんやりと取り留めのないことを考えていると、襖の向こう側から静かな声がかけられた。
「まだ起きていらっしゃいますか?」
「ああ」
やはり静かに返事を返すと、そっと襖が開き、風呂に入った後らしい浴衣姿の平太が顔を出す。そして音をたてないように襖を閉め、半助の隣に腰を下ろした。
「悪かったな、こんなちゃんとした部屋を使わせてもらっちゃって…」
「あぁ。そんなことは気にしなくていいですよ。田舎だから家だけは広いんです」
平太は微笑んで、半助の濡れた髪に優しく触れた。
半助も目を閉じ、ゆっくりと髪を梳く手に頭を預ける。
やがて、その指が半助の唇を柔らかく押しつぶすように、なぞった。
「平太…」
半助は制止の意味を込めて、小さく名を呼ぶ。
いくら家が広いとはいえ、壁一つ向こうでは家族が寝ているのである。
平太はふ、と笑った。
「うん、わかってるよ。半助が困るようなことはしないから、大丈夫」
…いつも散々困らせてるくせに、よく言うよ…。
ていうかこの場合、困るのは普通お前の方じゃないのか…?
今一つ納得がいかないながらも、昼間からの“平太甘やかしモード”は、まだ続いてしまっていた。
…どうしちゃったんだ、今日の俺は…。
再び唇に触れてきた指に、今度はなぞられるとおりに半助は唇を開いた。
「…ちょっとだけ声、我慢して…」
耳元で囁かれた言葉に微かに頷くと、しっとりと平太の唇が重ね合わされた。
濡れた舌が侵入し、半助の舌を小さく愛撫するように刺激してくる。
「っ」
すぐに半助は、声を抑えるのが思った以上に大変であることに気が付いた。
髪に差し入れられた指に頭皮を揉み込むように撫で上げられ、半助の体がびくりと跳ねる。
「…っ…」
そして漏れそうになる声を必死に飲み込もうとして震え始めていた舌を、ゆっくりと吸い上げられ。
「んっ…」
とうとう抑えきれなかった声が漏れてしまい、半助は泣きそうな目で平太を見上げた。
平太は半助の体を一度ぎゅっと強く抱いてから、ようやく半助の唇と体を解放した。
「……」
…体が、熱い…。
困り切って視線を上げると、平太も苦笑してこっちを見ていた。やりすぎたと思っているのだろう。
だが平太ばかりも責められない。
今、接吻を欲していたのは、半助も同じだったからだ…。
「明日…」
平太が片手で半助の頭をそっと撫でて囁く。
「…」
「明日の宿は、俺も一緒に行くよ」
半助がこくりと小さく頷いたのを確認して、平太は部屋を出て行った。