とりとめのない雑談を交わしつつのんびりと蕎麦を食べ、店を出る頃には、陽はとっぷりと暮れていた。だが日中から続く籠もるような暑さは変わらず、じっとりと湿った空気が肌に纏わりつく。
空は、どんよりと黒い雲に覆われていた。
「ひと雨、きそうですね」
平太が鉛色の空を見上げて呟いた。
「すこしくらい降ってくれた方が、涼しくなっていい」
「それはそうかもしれませんが……」
と言ったその頬にポツと水滴が当たったかと思うと、瞬く間にザァァァと盥をひっくり返したような雨が二人を襲った。
「うわ!先生走って!」
バシャバシャと泥水を跳ねさせ、しばらく頑張ってはみたものの。
雨脚は弱まることを知らず強まる一方で。
「………。これじゃあ、走っても走らなくても同じだな」
水を吸ってぐっしょりと重くなった着物を摘まんで笑いかけた半助に、
「ま、そうですね…」
平太も苦笑し、結局二人は歩を緩めた。
当然ながら、家に着いた頃には二匹の濡れ鼠ができあがっていた。
闇が落ちた室内に、半助が灯りをともす。
「床、濡れちゃいますね」
「いーよ、気にすんな。それよりさっさと脱がないと、いくら夏でも風邪ひくぞ」
雨にぐっしょりと濡れた体は、指先まで冷え切っていた。
ぶる、と身震いした平太を見て、言わんこっちゃない!と半助は急ぎ二人分の替えの着物と手拭いを取りに行った。
「ほら、脱げっ」
「うわ…っ。いいよ、先生。自分でできる」
半助が平太の着物に手をかけグイグイと引き下ろそうとすると、焦ったような声で止められた。
「え?……あぁ。そうだよな。すまん、つい…」
苦笑して顔を上げる。
すると、びっくりするほど近くに平太の顔があり、半助は動きを止めた。
濡れて色を濃くした前髪から、滴れ落ちる雫――。
半助の脳裡に、ここひと月ほど意識的に考えないようにしていた梅雨の日の出来事が鮮やかに蘇った。
と、二人の視線が絡まる。
どくん――
半助の心臓が音をたてた。
(〜〜〜だから!何を意識してんだ俺…っ。こいつは男だぞ!しかも生徒だ!)
焦って自分に言い聞かせるが、一度意識してしまったものは容易に治まらず。
動揺した半助は、不自然にばっと体を離した。
そんな半助を、平太がちら、と見る。
「な、なんだ……?」
「―――いえ、なんでも」
(………)
のろのろと体を拭き、どうにか着替えを済ませたが、まだ半助の動揺は治まっていない。ぼんやりと座り込む半助の髪からはぽたぽたと雫が落ち、替えたばかりの着物に新たな染みを作っていた。それを見て、とっくに着替えを終えていた平太が溜息をつく。
「先生、それ貸して」
ぐいと半助の手から手拭いを抜きとり背後に膝立ちになると、結い紐に指をかけ、濡れた髪をぱら、と解いた。
温かな平太の体温を背に感じて、半助の心臓が再び早鐘を打ち始める。
(ああもう……っ)
半助は泣きたくなった。
平太は、半助の髪を項から上へと掻き上げては一束掬い、手拭いで押さえるように丁寧に水分を吸い取ってゆく。
平太の指が頭皮を滑るたび、半助は身を固くした。
「………」
「………」
雨の音だけが部屋に降る。
ひととおり拭き終えると、平太は静かに手拭いを脇へ置いた。
半助は俯いたまま、ほっと息を吐いた。
だが、平太はそのまま動かない。
じっとこちらを見ているのが気配でわかる。
(な、なん、だ……?)
どくどくと、己の心臓の音が耳の中で喧しく鳴る。
耐えきれなくなった半助が、振り返ろうとしたそのとき――
髪に、優しく押しつけられる唇の感触。
半助の心臓がどくん、と大きく跳ねる。
続いて頭皮に感じた熱い吐息に、ぞく、と体に電流のようなものが走った。
「っ…」
半助は思わず顔を上げ、平太を見た。
すると平太も半助をまっすぐに見返す。
平太の表情は落ち着いていた。
しかし、その目の奥にあるものに、半助は小さく息を飲んだ。
それは半助が平太の中に初めて見る――情欲の色だった。
半助は金縛りにあったように動けない。
外の雨は勢いを増し、板戸がカタ…と音をたてる。
それが合図であったかのように、平太が半助に噛みつくように口付けた。
(!)
反射的に逃げを打った半助を、後頭部に差し入れた手が押さえ込む。
「んんー…っ」
平太の髪を掴んでも、押され気味の体勢では思うように力が入らず。
自分の唇に押しつけられている熱く柔らかなそれに、半助の頭は混乱した。
「ん………。は…ぁ…」
僅かに唇が離され、半助の口から吐息が零れる。それさえも奪うように再び平太の唇が重ねられ、より深く口付けられた。
「ふっ…ぅ……っ」
平太の舌が半助の舌を絡め取る。
貪るようなそれに半助の息は上がり、次第に頭の芯が痺れ始め――。
半助は平太の着物の背をぎゅぅ…と掴んだ。
「…ン…」
ゆっくりと、唇が離される。
飲みきれなかった唾液が二人の間で糸をひくのを、半助は呆然と眺めた。
「はぁ…・はぁ…・・」
整わない息のままぼんやりと目を上げると、平太が半助を熱っぽく見つめていた。
そして半助の濡れた唇を親指でゆっくりと拭ってから、その体を腕の中にくるむようにきつく抱き締めた。
「先生…」
掠れた声が耳元で囁く。
「俺…、あなたのことが、好きだ――」