とんとん。

 「…留守かな。喜三太、ほんとにここなのかー?」

 「絶っ対にこの中にいます!ぼくにはわかります!」

 「喜三太の言うとおりです!匂いがします!」

 「…しんべヱ、お前いつからナメクジの匂いがわかるようになった?」

 「ナメコ汁の匂いがします!」

 「…ナメコ汁じゃなくて、今探してるのはナメクジだ…。うーん、だが食べ物の匂いがするということは、中に人はいるということか…」

 「ナメ吉もいます!」

 力強く頷いた喜三太に、半助は返答のない戸を見つめて腕組みした。

 半助は今、堺の港までしんべヱの父親を送りにいった帰りである。
 学園と堺の間に位置するクロサギ、シラサギの二国が最近不穏な動きを見せているため、心配した学園長が半助に同道を命じたのだ。
 息子のしんべヱだけでなく、たまたましんべヱと遊んでいた喜三太まで一緒に付いてきたのはまあいいとして、問題はナメクジまで付いてきてしまったことである。何かあったときにナメクジの命が危険だから(邪魔だから、が本当の理由だが)置いていきなさいと何度言っても、そのときはボクが守ります!と言って喜三太は聞かなかった。
 幸い何事もなくしんべヱの父親を送り届けたまではよかったが、その帰り道、ナメ吉が壺から行方不明になってしまったのだ。
 さっそくナメ吉探索が開始され、喜三太だけが持つ第六感を頼りに辿り着いた先が、現在半助の目の前にあるこの廃墟一歩手前の屋敷だった。
 そしてこの場所は、思い切りシラサギの領地内であった。
 一刻も早く通り抜けてしまわねばならない地域である。

 「…喜三太、ひと様の家に勝手に入っちゃいけないことは、わかるな?」

 「……」

 「もう一度戸を叩いて、それでも返答がなかったら、ナメ吉のことは諦めるんだ」

 「そっ、そんな…っ」

 喜三太の大きな目いっぱいに涙が浮かぶ。

 う…。

 その幼い泣き顔に、半助はたじろいだ。
 心がずきずきと痛む。
 しかし、この子達のためにこそ、今は心を鬼にしなければならなかった。
 こんな場所でいつまでもうろうろしていて両国の争いに巻き込まれるようなことにもなれば、危険なのはナメ吉ではなく、この子達の方なのだ。

 「ここはシラサギの領地内だって先生言ったじゃないですか!ナメ吉ひとりをここに残して、シラサギ忍にナメ吉が襲われたりでもしたら…っ!いや、もしかしたらもうこの中で囚われているのかも…っ!」

 「大丈夫だ、先生が約束する。ナメ吉がシラサギ忍に狙われるようなことは、100%ない」

 半助はきっぱりと言い切った。
 これだけは誰にでも自信を持って言える。

 「…ぅぅぅ…」

 「喜三太。見てごらん、この湿気がいっぱいのジメジメした家を。きっとナメ吉はここで幸せに暮らしていくさ。危険がいっぱいの忍術学園にいるよりかえっていいくらいだ」

 「ぼ…っ、ぼくはナメ吉と離れることなんて考えられませんっっ!」

 そのとき。
 半助と喜三太のやり取りをおろおろと見守っていたしんべヱが、突然「わかった!!」と叫んだ。

 「もう一度叩いてみて、人が出てくればいいんでしょう、先生?それでナメ吉を探させてくださいって言うんだよね?」

 「あ、ああ、そうだが…」

 「ナメコ汁と、山菜の雑炊と、磯辺揚げと、豆腐ステーキの匂いがする!絶対に中に人はいる!」

 そう頼もしく宣言すると、しんべヱは戸が歪むほどの怪力でドンドンドンドン!!と木戸を叩いた。

 「そこにいるのはわかってるんですよぉ〜!!」

 ドンドンドンドン!!

 「ナメコ汁と、山菜の雑炊と、磯辺揚げと、豆腐ステーキを食べているそこの人ぉ〜!!大人しく出てきなさぁぁぁあい!!」

 喜三太もつられて大声を張り上げる。

 「ナメ吉ぃいいい〜〜〜〜!待ってろぉおお〜〜〜!今助けにいくからなぁあああ〜〜〜!!」

 ドンドンドンドン!!

 と。

 ガタン!!!

 突然内側から戸が開いたと思うと、半助と同じくらいの歳の青年が物凄い形相で怒鳴りつけてきた。

 「うるせぇ!!!てめぇら、この家をぶっ壊す気か!!!」

 お。本当に人が出てきた。
 やってみるもんだなあ、と半助は思わず感心しかけ。
 いやいや、感心してる場合じゃなかった、と子供達を脇に寄せ、男に頭を下げた。

 「申し訳ありません。実は、お宅の敷地内にうちのナメクジが入り込んでしまったようで、探させて頂けないでしょうか?」

 「……」

 「あの…」

 何も言わない男に訝しんで顔を上げると、男はじっと探るように半助を見ていた。
 そのとき漸く半助はあることに思い当たり、しまった、と思った。
 どうして気付かなかったのか。
 そもそもこの家は食べ物の匂いだけで、人の気配は一切なかったではないか。にもかかわらずこの男が出てきたということは、男が気配を消していたということだ。
 普通の人間は、これほど完璧に気配を消せはしない。
 つまり、この男は――。
 喜三太としんべヱにすっかり調子を狂わされていた自分の失態だった。

 「あんた、忍びだな。うちに何の用だ」

 男が再び口を開いた。
 ひと目で半助を忍びと見抜き、半助が見抜いたことにも気付いている。
 相当な手練ということだ。
 半助は腹を括った。
 忍びだからといって敵とは限らない。
 それに男から攻撃的な気配は一切感じられなかった。

 「うちのナメクジがお宅に入り込んでしまったみたいなんです。お仕事の邪魔はしませんので、探させてもらえないでしょうか?ナメクジを引き取ったら、すぐに帰ります」

 「だからその言い訳はもういい。本当の理由はなんだと聞いている」

 「…」

 そうだよなぁと半助は思った。
 こんなおかしな理由をすぐに信じるようでは、それこそ忍者失格だ。
 だが嘘をつくわけにもいかないし、と半助が困り切っていると。

 「ナメ吉ぃいいいいい!」

 痺れを切らした喜三太が男の脇をすり抜け、どたどたどたっと家の中に入っていってしまった。

 「っおい!このガキ!」

 「喜三太!勝手にひと様の家に上がり込むなって言ったばっかりだろ!すみません、すぐに連れ戻します!」

 「え、ちょ、あんた!」

 半助は男の制止を無視して家に上がり込んだ。
 もはやナメクジがどうのと言っている場合ではない。
 敵意があろうとなかろうと、やはりこんな怪しい家、すぐに去らなければ。
 そう決めて喜三太を追い廊下を駆け抜け、一番奥の部屋に踏み込んだ瞬間。

 半助は、言葉をなくして立ちすくんだ。
 やはり同じように目を見開いて呆然とこちらを見ているのは、この一年半、一日も忘れたことのないその顔。

 半助の口から、一年半、数えきれないほど呟いたその名前が零れ出た。


 「平太――」






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