雨、雨、雨。

 一体これは、どういうわけだ――。


 「――なんだよ、これ」

 「雨だろ」

 「なんで、こんなに降ってるわけ?」

 「梅雨だからだろ」

 「だから!なんで梅雨なんだって言ってんの!」

 平太はあの日の使者――千影――の胸倉を両手で掴み、ぐいぐいと揺さぶった。
 畳に寝転がっていた千影は、煩わしそうにその手をはらう。

 「耳元で喚くな、うるせぇ」

 「あんた、言ったよな。“一年”って。俺の記憶が正しければ、ここに来たのは夏の終わりだったはずだぜ。それも一昨年のな!」

 半助と別れたあの夜から、実に一年と九ヶ月。
 平太の任務は未だ終わっていなかった。
 城への潜入こそ順調にいったものの、クロサギと共に世に名を知られるシラサギは当然一筋縄でいく相手ではなく。
 決定的な情報を掴めないまま当初の予定を遥かに超える月日が流れ。
 それでもついにその入手に成功し、一年半を過ごしたその城から彼らが撤収したのは、ひと月ほど前のことだった。
 だがそれで任務完了、報酬をもらってはいサヨウナラというほどプロの世界は甘くはなかった。
 これほどの長期任務である。
 残務整理が並の量ではなかったのだ。
 結果二人は、シラサギ領内の山中の屋敷に拠点を移し、朝から晩まで日々その作業に追われているのである。

 「千影、あんた最初から知ってて俺に言わなかったな。この仕事が一年ぐらいで終わるもんじゃないってこと」

 「人聞きの悪い言い方すんなよ。奇跡的にうまくいけば一年で終わるかもしんねぇな、終わるといいよな、とは思ってたぜ?」

 「……詐欺師め……」

 「俺様の神業的な仕事をそれだけ長く間近で拝むことができたんだ。有り難く思ってもらいてぇな」

 「それはそれ。話が別だ」

 「ちっ、…可愛くねーの」

 そう言ってわざとらしく口を尖らした男を横目に見ながら、確かに、とは平太も思う。
 確かにこの一年半の間千影と共に仕事をしたことで、自分が得たものは想像以上に大きなものだった。
 任務の遂行のためとはいえ、技術的にも精神的にも、忍びに必要なあらゆることを、千影は惜しみなく平太に教えてくれた。千影のような一流の忍者と組むことができたことは、何物にも代えがたい経験だったと確かに言えるのである。
 と同時に、忍術学園での授業がいかに実際の任務を想定しているものであったかを、平太は改めて思い知ることになった。卒業してから今日まで、あの学園で学んだことがどれほど役立ったか知れない。
 そこまで考えて、この一年半思い出さない日はなかった人の顔が再び頭に浮かび、平太は深く嘆息した。

 「一番最初に教えたはずだぜ、忍びに必要なのは忍耐だってな。忘れたか?」

 「……」

 「なんだ、不満そうだな」

 じっとりと上目使いに見上げてくる七歳下の仲間に、千影は苦笑した。

 「……あんたはいいよな、小夜がいるんだから」

 平太はぼそりと呟いた。

 小夜とは彼らの仲間で、商人になりすまし城下で諜報活動を行っているくノ一である。
 そして、千影の妻でもあった。
 クロサギ城主から配下の忍びを一名連れて行くことを許された千影は、迷わず小夜を選んだ。
 職権乱用もいいところである。
 千影も小夜も疑いなく優秀な忍びであり、公私混同するようなことは決してなかったが、それはあくまで仕事の時は、の話である。
 平太達三人はこの一年半、月に数度この屋敷に集まり情報交換を行ってきたが、仕事の話が終わった途端に奥の一室はこの夫婦により占拠され、毎度平太は身の置き場に困ったものだった。そしてその状況は生活の場がここへ移った今も変わらないのだから、たまったものではない。

 「まーた平太をからかってんの?」

 平太が不貞腐れていると、朝から城下町の偵察に出かけていた小夜が、くすくす笑いながら入ってきた。
 人目をひくほどの美形だが、この二人が似たもの夫婦であることを平太は知りぬいている。

 「ほどほどにしなさいよ、千影。いくら平太が可愛いからって」

 そう言って小夜は、にこにこと平太の頭を撫でた。
 平太は「頭、撫でんな」と不機嫌にぶんぶんと頭を振り、その手をはらう。

 「ふふふ。うちの店の子の間でも、あんた大人気よ。あんたに商品届ける時なんて、毎回誰が届けに行くか決めるだけで大騒ぎだったんだから。悪い男ねぇ」

 白い指先にツンと額をつつかれて、平太はふんっとそっぽを向いた。
 千影はそんな二人を可笑しそうに眺め、「小夜も戻ったことだし、飯食おうぜ」と、既に用意してあった昼餉を床に並べる。

 「あら、美味しそうじゃない。ずっと歩きっぱなしだったからお腹空いちゃった。今日はどっちが作ったの?」

 「俺だよ。こいつ朝からずっと拗ねてて、使い物になりゃしねぇ」

 と千影は平太の方を睨んでから、「で、シラサギの様子はどうだった?」と小夜に問うた。

 「そのことだけど…」

 小夜の表情が急に曇る。

 「情報の流出に勘付き始めてるみたい」

 「…思ったより早かったな」

 「さすが天下のシラサギってところかしらね。抱えてる忍びも超優秀揃い。あんた達のことはばれていないはずだけど、相手がどこまでこっちの動きを掴んでるかわからない以上、ここは引き払った方がいいわ。次の屋敷は用意できてるから、今夜にでも移りましょう。荷物は…」

 そこまで小夜が言った時。
 ばたばたと雨粒が屋根を打つ音にまじり、とんとんと戸を叩く音がした。
 三人ははっと視線を合わせ、次の瞬間、気配を消した。






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