「っこのガキ…!ぶっ殺してやる!」

 畜生、しつこいな…っ。
 そうさ、十やそこらのガキだろ?少しくらい見逃してくれてもいいじゃないか。
 あんた達には少なくとも、今夜食う物があるんだから…。

 
 もうどれくらい走っただろう。
 いつのまにか追手は五人に増えていて。
 店先の物をちょいと拝借することなんて俺にとっては朝飯前、のはずだったのに。選んだ店がまずかった。
 追いかけてきた男達の顔を見て、やばい、と気付いてももう遅く。

 西の空がいつのまにか夕焼けに染まってる。
 呼吸が苦しい。足の感覚なんかとっくにない。
 大体、今どこを走ってるのも分からない。

 それでも目の前の道を無茶苦茶に走り抜けて、角を曲がった途端、唖然とした。


 行き止まりだ――。



 「へへっ。もう逃げられねぇぜ」

 壁際に、追い込まれる。
 背に、冷や汗が流れるのがわかった。

 ……やばい、かな……。
 母ちゃんに、これだけでも食わせてやりたかったけど……。


 「へっ。さっきまでの威勢はどこへ行ったんだ?ええ?」

 じりじりと近付く奴らの目は、抵抗できない獲物をどういたぶってやろうかと明らかに楽しんでいる。
 命まで取られやしないとは思うけど、そうだと言い切れるほど世間知らずでもなかった。
 抵抗すればそれだけ、死に近づくだけ――。

 観念して、体の力を抜く。
 目を閉じ、襲う痛みに耐えようと奥歯を食い閉めた。


 そのとき。


 「!!?」

 何か温かい物に包まれたと感じた途端、ふわり、と体が宙に浮いた。

 ……目を開けたときには、俺は屋根の上にいた。
 何が起こったのかわけがわからない。
 下では、やはり男達が呆然とこっちを見上げている。
 そして、今俺の体を抱いているこの腕は――


 夕焼けと同じ橙色の着物。
 肩にかかる茶色の長い髪。
 その上には。

 「大丈夫か?」

 ぱっちりと大きな目をした、若い女。


 「………」

 「怪我は?」

 落ち着いた、柔らかな声で女が聞く。
 息ひとつ乱れていない。
 ……本当にこの人が、たった今俺を抱えて屋根まで跳んだのか?
 ていうか、人って屋根まで跳べるものなのか?

 「…ってめぇ、忍びか…!?」

 「そのガキは盗人だ!返してもらうぜ!」

 ようやく我に返った男達が、次々とがなり立てた。

 “忍び”…?

 「返して、それでこの子をどうするつもりだ。殺すのか?」

 屋根の上とはいえ物騒な男達を五人も前にして、女は変わらず飄々と落ち着き払っていた。
 それにしても、優しげな顔に似合わず、随分と男前な口調だ。

 「殺しはしねぇよ!」

 「だが、死に兼ねないようなことはするつもりだろう?」

 それから、女はちらと俺の方を見た。
 なぜか、どくんと心臓が跳ねる。

 「お前、走れ……そうもないな」

 女は苦笑した。そして

 「しっかり掴まってろよ」

 と言ったときには、俺を抱いたまま屋根を蹴っていた。

 「ぅわっっ」

 慌ててしがみ付いた俺を慣れた様子で小脇に抱えて、風のように屋根を駆け抜ける。
 平屋とはいえ結構な高さがあるそれを、次から次へ軽々と跳躍するその鮮やかさに、俺は恐怖も忘れて見入った。
 

 これが、 “忍び”――。






 女が俺を下ろしたのは、長屋と長屋の隙間の小さな空き地だった。
 偶然だろうけど、うちのすぐ近くだ。
 女はしゃがんで、俺の体を点検するように眺めた。
 そして、その綺麗というより可愛い顔の表情を和らげ、ほっと息をつく。

 「怪我はないようだな」

 「あ、ありがとう…ございました……」

 息が上がっているのと、なぜか緊張しているのとで、俺はとぎれとぎれでなんとか礼を言う。
 女は小さく目を瞠ってから、ふ、と笑い、俺の頭にぽんと手をのせた。
 優しい、手だ。
 母ちゃんのような。

 「お前、何を盗んだんだ?」

 「……な…なにも……」

 「ん?よく聞こえなかったぞ?」

 女は微笑んだまま、俺の顔を覗き込む。

 「…………干し…いも…………」

 「そっか」

 絶対に怒られると思ったのに、女は、怒らなかった。
 何も言わないで、ただ優しい目で俺の顔を見ている。
 ……頭にのせられた手は、すごく温かくて……。
 俺はなんだか頭の中がぐちゃぐちゃになって、胸の中にあるいろんなものを、全部、吐き出した。

 「母ちゃんに…食わせてやりたかったんだ…。母ちゃん…病気で…。昨日も米を少ししかやれなくて……。俺だって…こんなこと…したくない…。けど、こうでもしなきゃ……っ」

 突然、ふわりと柔らかな温もりに包まれた。
 少し遅れて、女に抱き締められているのだとわかった。

 ぽんぽんと背を叩かれる。

 「泣かない、泣かない。男の子だろう?」

 言われて、自分が泣いていることを知った。
 ぎゅ…と力を込められて、涙が溢れ出て止まらなくなる。

 「もう、盗みなんかするなよ。お前が死んじゃったら、お母さんが悲しむだろう…?」

 だけど…。

 「けど、じゃあ米は…?今夜の飯は…?明日の…」

 女は、俺の言いたいことは全部わかっているというように、悲しそうな顔で微笑んだ。

 「うん……。それでも、人の物を盗んでいたら、きりがないんだよ。どんなに小さなことからでも働いて、お金をもらって、自分自身で生きていく力を身につけないと、な。……大丈夫、できるよ。私だって、できたんだから」

 「…あなたも…?」

 「ああ」

 そう言って、女はにこっと笑った。
 今度は悲しそうじゃない、明るいお日様のような笑顔だ。
 この人は今、幸せなんだな、と思った。
 よかった、とも。

 「……わかった。俺、やってみる」

 「ああ。でも、それでもどーっしても盗みをしなきゃならないような状況になったら……、そのときは、ちゃんと相手を選べよ?」

 いたずらっ子のような顔で言った。

 「…………へ?」

 って、今までの美しい話は一体どこへ、、、。
 返す言葉がなく呆然としてると、

 「っていうのは冗談でー」

 明るい声で言われ、ずっこけそうになった。
 …意外と気さくな性格のようだ。
 それに、冗談とは思えないんだけど、、、。
 つい怪しげなものを見るような目を向けてしまう。

 「いやいや、本当に冗談だ。、、、調子に乗りすぎたな」

 女はこほんと小さく咳をして、ぽりぽりと頬を掻いた。
 そして改まったように、俺の顔を見直す。

 「どーしても盗みをしなきゃならないくらい困ったときは、“忍術学園”においで。私はそこにいるから。大した助けにはなれないけど、簡単なアルバイトくらいは紹介してあげられるかもしれない」

 「…“忍術学園”…」

 「だから、自分のことをもっと大事にしろ。お母さんのためにも、な」

 そう言って綺麗に微笑むと、もう一度ぎゅっと抱き締めてくれた。
 優しい、匂いがした。
 母ちゃんのような。
 いや、母ちゃんというより……・・。
 ………あれ………?
 心臓が、早くなる。
 なんか落ち着かない。
 な、なんだこれ?
 顔が、熱くなるのがわかった。



 そこへ突然声がかかった。

 「先生ー!!」

 「ああ、平太、ここだ」

 長屋の脇から、若い男がこっちに向かって駆けてくる。
 俺より五歳くらい上だろうか。
 って、 “先生”…?

 女はゆっくりと俺から離れた。
 すこし、寂しい気がした。
 男は女の腕の中にいた俺をじろじろと不遜な目つきで見ている。
 なんだ、こいつ。
 俺も負けじと睨み返してやると、そいつはふっと視線を外して、女の手を取った。

 「やっと見つけた。随分探したんだぜ」

 「ああ、悪かったな…。ちょっと色々あって」

 女は苦笑して頭を掻くと、もう一度俺に向き直った。

 「それじゃあ、な。これ、少しで悪いけど、今夜お母さんに美味しいものを食べさせてあげるといい」

 と、銭を数枚俺の手に握らせる。

 「あ、ありがとう」

 「どういたしまして。お母さんによろしくな」

 そう笑って、女は男と一緒に去って行った。





 “忍術学園”に行けば、またあの人に、会えるのだろうか……。
 …いや。
 まず、自分の力で生きていく力を身につけるんだ。
 あの人もそうやって生きてきたって言っていた。
 俺にだって、きっとできる。

 そして、いつか――。







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