カタンと風が雨戸を揺らした微かな音に、半助ははっと目を覚ました。
「………」
深夜の学園はしんと静まり、隣では伝蔵が静かな寝息をたてている。
冷や汗でじっとりと湿った寝間着は不快に肌にはりつき、心臓がどくどくと五月蠅いほど脈打っていた。
震える手を胸にあて、ゆっくりと息を吐く。
嫌な、夢――。
夢の内容は覚えていない。
しかし覚えていたところで、大した筋などないに違いない。
唯一覚えているのは。
一面に散らばる……赤――。
長く忍びなどしていれば、この種の夢は珍しいものではない。
ましてや自分は幼少時の事情もあり、こうした寝覚めには慣れている。
だから、こんな夜をやり過ごすことだって、慣れているのだ。
いつもならば――。
しかし何故か今夜は、夢の名残はいつまでも昏く、おぞましく、ざわざわと半助の神経に纏わりついて離れなかった。
夕闇が迫るなか帰り道を見失った小さな子供のように、言葉にならない不安が半助の心を支配する。
俺は疲れてるのかな…と、ぼんやりと思った。
室内の重い闇に息苦しさを感じ、そっと木戸を開けて空を見上げると、月は雲に隠れてしまっていて見えなかった。
そして、気付けばもう数か月会っていないその人を、半助は想った。
数刻後。
半助は一軒の家の前にいた。
もう幾度も通い慣れた、家。
しかし深夜のいま、そこからは物音ひとつ聞こえない。
「……」
一体何をやってるんだ俺は……。
我ながら馬鹿なことを、と半助は思う。
あの恋人も自分と同じ職業で。
任務となれば何週間も家を空けることはしょっちゅうだ。
今夜彼がここにいる保証など何もなく、また仮にいたとしても、夜明け前には自分は学園に戻らなければならないというのに。
それでも、どうしても、来ないではいられなかったんだ――。
半助は目の前の戸を、じっと見つめた。
一度だけ。
一度だけ、叩こう。
それで彼が出てこなければ、帰ろう。
そう決めて、とんとん、と殆ど闇に吸い込まれそうな微かな音で、半助は木戸を叩いた。
しばらくして、中から外を窺う気配がし。
それからすぐに戸が開かれ、半助が今夜会いたくて会いたくてたまらなかった顔が現れた。
「半助…?」
平太が目を見開き、潜めた声で囁く。
「…」
一方半助は、いざ本人を前にすると、どうしていいのかわからなくなってしまった。
平太に会った後のことなど、何も考えてはいなかったのだ。
深夜に突然訪ねてきながら何も言わない恋人をどう思ったのか、平太は少しの間黙って見つめ、それから半助の肩を抱くようにして、静かに中に入れてくれた。
部屋の中に灯りはついておらず、直前まで彼が寝ていたことがわかる少し乱れた布団が床に敷かれていた。
平太はその上に半助を座らせ。
そして何も言わずに、ぎゅ…と抱きしめてくれた。
起きたばかりの彼の体は、とても温かで。
半助はほぅ…と長い息を吐いて、体の力を抜いた。
ようやく自分の家にたどり着くことができた子供のように、心の底から安心して、目を閉じる。
「……どうしてこんな時間に来たのか……きかないのか…?」
小さな声で問うた半助に、平太は静かに笑った。
「俺に、会いたかったんでしょう…?」
「……」
よしよしと無造作に結われた髪を撫でられ。
半助は涙が出そうになって、平太の肩にぎゅっと顔を押し付けた。
平太は半助の旅装を解き小袖だけにすると、優しく布団の上に寝かせた。
そして自分も隣に横になりふわりと掛け布団をかけ、母親が子供にするように、ぽんぽんと布団の上から半助の胸をたたいた。
布団はまだ彼の体温を残していて、温かい。
「明日も、朝から授業…?」
髪を撫でながら囁かれた問いに、半助はこく、と頷いた。
「そっか」
「お前は…?」
「俺も、仕事です」
「ごめん…、起こしちゃったな…」
半助が謝ると、平太はすこし黙り。
それから唇に、ちゅ…と軽い口付けが落とされる。
「ねえ、半助…」
平太は半助の体を抱き直した。
「ん…?」
「今夜、こうして訪ねてきてくれたこと、俺がどんなに嬉しかったか、わかる?」
「……」
「卒業してすぐの頃だったら、半助は絶対に突然夜中に俺を訪ねてきたりしなかった」
「……」
「それが今夜は、俺に会いたいって気持ちのまま会いに来てくれたろ?俺に迷惑をかけるとか、そんな風に考えずに、会いにきてくれた。それが俺には、すごく嬉しくて…」
「平太…」
平太は半助の頭に唇を押しあてた。
「これからも、会いたくなったら、我慢しないで会いに来て」
「……」
「もっと、わがまま言って」
きゅ…と抱く腕に力が込められる。
「もっともっと、俺に甘えてよ――」
「……うん」
望んでやまなかったあたたかな温もりに包まれ。
半助は安らかな気持ちで、瞳を閉じた。
「……そうだな……平太……」
目を閉じても、あの赤い幻影はもうどこにも見えなかった。