■ロンドン塔■


  二年の留学中ただ一度倫敦塔を見物した事がある。その後再び行こうと思った日もあるがやめにした。人から誘われた事もあるが断った。一度で得た記憶を二返目に打壊わすのは惜しい、三たび目に拭い去るのはもっとも残念だ。「塔」の見物は一度に限ると思う。

 ……

  倫敦塔の歴史は英国の歴史を煎じ詰めたものである。過去と云う怪しき物を蔽(おお)える戸帳が自ずと裂けて龕(がん)中の幽光を二十世紀の上に反射するものは倫敦塔である。すべてを葬る時の流れが逆しまに戻って古代の一片が現代に漂い来れりとも見るべきは倫敦塔である。人の血、人の肉、人の罪が結晶して馬、車、汽車の中に取り残されたるは倫敦塔である。

 (
倫敦塔』より)



タワー・ブリッジから見たロンドン塔。

 この倫敦塔を塔橋の上からテームス河を隔てて眼の前に望んだとき、余は今の人かはたえの人かと思うまで我を忘れて余念もなく眺め入った。…二十世紀の倫敦がわが心の裏(うち)から次第に消え去ると同時に眼前の塔影が幻のごとき過去の歴史を吾が脳裏に描き出して来る。朝起きて啜る渋茶に立つ煙りの寝足らぬ夢の尾を曳くように感ぜらるる。しばらくすると向う岸から長い手を出して余を引張るかと怪しまれて来た。今まで佇立して身動きもしなかった余は急に川を渡って塔に行きたくなった。長い手はなおなお強く余を引く。余はたちまち歩を移して塔橋を渡り懸けた。長い手はぐいぐい牽く。塔橋を渡ってからは一目散に塔門まで馳せ着けた。

タワー・ブリッジ。1894年架橋。

漱石が英国に到着したのは1900年10月28日。その三日後の10月31日に、漱石はここを訪れました。つまり彼はGower Streetの宿からやって来たわけで、そうすると地理的には左に引用したような「川を渡って塔へ行く」ような状態にはならないはずなのです。おそらく”物語性”を大事にした漱石らしい演出なのでしょう。そういう意味では、現実と幻想が絶妙に入り混じったこの傑作の特徴は、この書き出しから既に始まっているのかもしれません。
現在のロンドン塔は観光客で溢れかえっていて、漱石が感じたような幻想性は欠片も感じることができません。それは日本においても同じことで、残念ですが時代とともに私達が失ってしまったものの一つなのでしょう。

入場口の人波を見ている子供たち。
可愛かったので思わずパチリ。

Middle Tower

 空濠にかけてある石橋を渡って行くと向うに一つの塔がある。これは丸形の石造で石油タンクの状をなしてあたかも巨人の門柱のごとく左右に屹立している。その中間を連ねている建物の下を潜って向へ抜ける。中塔とはこの事である。

Bell Tower

少し行くと左手に鐘塔が峙(そばだ)つ。真鉄(まがね)の盾、黒鉄の甲が野を蔽(おお)う秋の陽炎のごとく見えて敵遠くより寄すると知れば塔上の鐘を鳴らす。塔上の鐘は事あれば必ず鳴らす。ある時は無二に鳴らし、ある時は無三に鳴らす。祖来る時は祖を殺しても鳴らし、仏来る時は仏を殺しても鳴らした。霜の朝、雪の夕、雨の日、風の夜を何べんとなく鳴らした鐘は今いずこへ行ったものやら、余が頭をあげて蔦に古(ふ)りたる櫓(やぐら)を見上げたときは寂然としてすでに百年の響を収めている。

Traitors Gate

 また少し行くと右手に逆賊門がある。門の上には聖タマス塔が聳(そび)えている。逆賊門とは名前からがすでに恐ろしい。古来から塔中に生きながら葬られたる幾千の罪人は皆舟からこの門まで護送されたのである。彼らが舟を捨ててひとたびこの門を通過するやいなや娑婆の太陽は再び彼らを照らさなかった。テームスは彼らにとっての三途の川でこの門は冥府に通ずる入口であった。彼らは涙の浪に揺られてこの洞窟のごとく薄暗きアーチの下まで漕ぎつけられる。……
 余は暗きアーチの下を覗いて、向う側には石段を洗う波の光の見えはせぬかと首を延ばした。水はない。逆賊門とテームス河とは堤防工事の竣功以来全く縁がなくなった。幾多の罪人を呑み、幾多の護送船を吐き出した逆賊門は昔しの名残りにその裾を洗う笹波(ささなみ)の音を聞く便りを失った。

Bloody Tower

 左りへ折れて血塔の門に入る。……塔の壁は不規則な石を畳み上げて厚く造ってあるから表面は決して滑(なめらか)ではない。所々に蔦がからんでいる。高い所に窓が見える。建物の大きいせいか下から見るとはなはだ小さい。鉄の格子がはまっているようだ。番兵が石像のごとく突立ちながら腹の中で情婦とふざけている傍らに、余は眉を攅(あつ)め手をかざしてこの高窓を見上げて佇ずむ。格子を洩れて古代の色硝子に微かなる日影がさし込んできらきらと反射する。

ここからはじまるエドワード4世の2人の息子達の死の描写がもう、ぞくぞくするほど素晴らしい。


Bloody Towerの門の下

 血塔の下を抜けて向(むこう)へ出ると奇麗な広場がある。その真中が少し高い。その高い所に白塔がある。


White Tower

白塔は塔中のもっとも古きもので昔しの天主である。竪二十間、横十八間、高さ十五間、壁の厚さ一丈五尺、四方に角楼が聳えて所々にはノーマン時代の銃眼さえ見える。

White Tower内の「螺旋状の階段」


White Tower内の「武器陳列場」

 南側から入って螺旋状の階段を上るとここに有名な武器陳列場がある。時々手を入れるものと見えて皆ぴかぴか光っている。日本におったとき歴史や小説で御目にかかるだけでいっこう要領を得なかったものが一々明瞭になるのははなはだ嬉しい。

 こういうのを読むと、漱石の英国生活も決して不愉快なだけではなかったんだな、と嬉しくなります。


ところでこの武器展示室、最近(2011年現在)行った人の旅行記をネットで見ていたら、近未来的なスターウォーズみたいな展示方法に変わっていました…。あれじゃあ漱石の頃にタイムスリップ気分なんて絶対に無理。この薄暗い感じがよかったのに…。押さえどころがわかってないなぁ、ロンドン塔…。

ヘンリー8世の甲冑(写真を撮り忘れたため、googleより拝借)。
漱石が6世と書いているのは、記憶違い…?

ただなお記憶に残っているのが甲冑である。その中でも実に立派だと思ったのはたしかヘンリー六世の着用したものと覚えている。全体が鋼鉄製で所々に象嵌がある。もっとも驚くのはその偉大な事である。かかる甲冑を着けたものは少なくとも身の丈七尺くらいの大男でなくてはならぬ。

唯一展示されていた日本の甲冑。徳川将軍から送られた物とのこと。だとすると漱石の言っている「日本製の古き具足」とは違う物なのかなぁ。あるいは、漱石に説明したビーフイーターがいい加減なことを言っていただけとか(ありえそうだ)。

そのビーフ・イーターの一人が余の後ろに止まった。…「あなたは日本人ではありませんか」と微笑しながら尋ねる。…余は黙して軽くうなずく。こちらへ来たまえと云うから尾いて行く。彼は指をもって日本製の古き具足を指して、見たかと云わぬばかりの眼つきをする。余はまただまってうなずく。これは蒙古よりチャーレス二世に献上になったものだとビーフ・イーターが説明をしてくれる。余は三たびうなずく。

Beauchamp Towerと処刑場跡(右の芝生部分)

白塔を出てボーシャン塔に行く。途中に分捕の大砲が並べてある。その前の所が少しばかり鉄柵に囲い込んで、鎖の一部に札が下がっている。見ると仕置場の跡とある。

Beauchamp Tower内部
壁一面にこの塔に幽閉されていた人々の心の叫びや祈りの言葉が刻まれています。


 倫敦塔の歴史はボーシャン塔の歴史であって、ボーシャン塔の歴史は悲酸の歴史である。十四世紀の後半にエドワード三世の建立にかかるこの三層塔の一階室に入るものはその入るの瞬間において、百代の遺恨を結晶したる無数の紀念を周囲の壁上に認むるであろう。


彼らが題せる一字一画は、号泣、涕涙、その他すべて自然の許す限りの排悶的手段を尽したる後なお飽く事を知らざる本能の要求に余儀なくせられたる結果であろう。

そして漱石はジェーン・グレイの処刑について想像を巡らしてゆきます。


こうして漱石は夢うつつな気分のままGower Streetの宿へと戻り、主人にロンドン塔で体験した不思議な出来事を興奮して話して聞かせるのですが、それを主人は「不思議でもなんでもない」とことごとく現実的に謎解きしてしまいます。そのオチと漱石のがっかりしている様子がなんとも楽しい^^

これで余の空想の後半がまた打ち壊わされた。主人は二十世紀の倫敦人である。
それからは人と倫敦塔の話しをしない事にきめた。また再び見物に行かない事にきめた。

■おまけ1■
『倫敦塔』の最後で漱石自らが語っているとおり、エドワード5世とその弟の幽閉の場面を書くにあたり、漱石はフランス人画家ポール・ドラローシュの絵画を参考にしています。
こちらがその絵。ロンドンのウォレスコレクションに収蔵されています。



石壁の横には、大きな寝台が横(よこた)わる。厚樫の心も透れと深く刻みつけたる葡萄と、葡萄の蔓と葡萄の葉が手足の触るる場所だけ光りを射返す。この寝台の端に二人の小児が見えて来た。一人は十三四、一人は十歳くらいと思われる。幼なき方は床に腰をかけて、寝台の柱に半ば身を倚(も)たせ、力なき両足をぶらりと下げている。右の肱を、傾けたる顔と共に前に出して年嵩なる人の肩に懸ける。年上なるは幼なき人の膝の上に金にて飾れる大きな書物を開げて、そのあけてある頁の上に右の手を置く。象牙を揉んで柔かにしたるごとく美しい手である。二人とも烏(からす)の翼を欺くほどの黒き上衣を着ているが色が極めて白いので一段と目立つ。髪の色、眼の色、さては眉根鼻付から衣装の末に至るまで両人共ほとんど同じように見えるのは兄弟だからであろう。
 兄が優しく清らかな声で膝の上なる書物を読む。
「我が眼の前に、わが死ぬべき折の様を想い見る人こそ幸あれ。日毎夜毎に死なんと願え。やがては神の前に行くなる吾の何を恐るる……」
弟は世に憐れなる声にて「アーメン」と云う。折から遠くより吹く木枯しの高き塔を撼(ゆる)がして一度びは壁も落つるばかりにゴーと鳴る。弟はひたと身を寄せて兄の肩に顔をすりつける。雪のごとく白い蒲団の一部がほかと膨れ返る。兄はまた読み初める。
■おまけ2■
ジェーン・グレイの処刑の場面を書くにあたり、漱石が参考にした絵。
同じくドラローシュによるもので、ロンドンのナショナル・ギャラリーに収蔵されています。



男は…磨(と)ぎすました斧を左手に突いて腰に八寸ほどの短刀をぶら下げて身構えて立っている。女は白き手巾(ハンケチ)で目隠しをして両の手で首を載せる台を探すような風情に見える。首を載せる台は日本の薪割台ぐらいの大きさで前に鉄の環が着いている。台の前部に藁が散らしてあるのは流れる血を防ぐ要慎と見えた。背後の壁にもたれて二三人の女が泣き崩れている、侍女ででもあろうか。白い毛裏を折り返した法衣を裾長く引く坊さんが、うつ向いて女の手を台の方角へ導いてやる。女は雪のごとく白い服を着けて、肩にあまる金色の髪を時々雲のように揺らす。



倫敦漱石散歩