その夜。
すっかり寝静まった構内を長屋へと戻る途中で、平太はばったりと寝巻姿の半助に出会った。
「何してるんですか。ちゃんと寝てなきゃ駄目じゃないですか」
驚いて聞くと、半助が微笑して答えた。
「水がなくなったから、井戸まで飲みに来たんだ。こんなことで山田先生を起こすわけにいかないし…。お前こそどうしたんだ、こんな夜中に?」
「本を読んでいたらこんな時間になっちゃって…、今風呂に入ってきたんです。湯はすっかり冷めてましたが」
平太は苦笑する。
そこに、ピュ〜ッと冷たい風が吹き抜け、二人の寝巻の裾をはたはたと揺らした。
こんな寒い場所にいつまでも半助を立たせておくわけにはいかなかった。とはいえこのまま別れるのはどうにも名残惜しく、平太は半助の手を引いて、すぐ近くの離れの一室に上がり込んだ。
たまに行事で使う以外は、殆ど使われない空き部屋である。
半助は、大人しく付いてきた。
ぴたりと戸を閉じると、途端に風が止む。
中は思いのほか暖かかった。
平太は半助に向き直り、腕の中にその体を抱き込んだ。
「具合はどう…?」
「うん、だいぶよくなった」
半助の額に掌をあてると、嘘ではないらしく、熱は昼間に比べてだいぶ落ち着いていた。
それでも、まだ熱い。
「ごめんな。先生がこんなに具合悪いのに、俺、全然気付いてやれなくて……」
半助は平太の肩に額を擦りつけるようにして、無言で小さく首を振った。
茶色の髪がさらさらと揺れる。
その甘えるような仕草に平太は目を細め、そっと髪を撫でた。
「明秀に聞いた。先生、あの時怒鳴ったの、焼き餅焼いてくれたんだって…?」
具合の良くない半助ちゃんに悪いことしたな…と、珍しく困った顔で明秀が白状したのだった。
「ばかだなぁ…。でも、ちょっと嬉しかった。先生、焼き餅とかそういうの、普段殆ど見せてくれないから」
「…焼き餅焼き餅言うな」
半助は、顔を埋めたまま抗議した。
しかし、その手はしっかり平太の背にまわっている。
「だって、そのとおりだろ?」
平太は嬉しそうに笑うと、半助の項に鼻先を埋めた。
半助の唇から微かな吐息が漏れる。
平太は目を閉じてゆっくりと息を吸い、そして囁いた。
「……こうして抱き合うの、久しぶりだな……」
年末の、“あの時”以来だ――。
艶めかしい記憶を喚起させる半助の肌の匂いに、平太の腕に力がこもる。
半助はしばらく平太の腕の中でじっとしていたが、やがて、ぽつりと呟いた。
「……静かにできるなら……」
「え?」
「……いい、ぞ……。ここなら…人がくる心配はないし…」
平太が半助の顔を見ると、半助は体を硬くし、拗ねたような怒ったような顔で畳の一点をじっと見つめていた。
「……」
「……」
平太はしばらく黙った後、半助の首筋にそっと掌をあてた。
ぴくんと半助の肩が跳ねる。
平時に比べて明らかに熱いそこに、平太は苦笑する。
「まだ、熱があるだろ…?」
「べつに…平気だ…」
熱のせいか、心なしか普段より幼い雰囲気の半助に、平太は困ったような笑みをこぼした。
「どの口が言うかなぁ。昼間散々無理してぶっ倒れたのはどこの誰だよ」
平太が半助の唇を人差し指できゅっと押すと、半助は黙った。
だが、その唇はまだ少し不満そうである。
そんな半助に平太は思わず微笑み、半助の後頭部を支えるように片手をまわすと、少し尖った唇に自分の唇を重ねた。
「…ふ…」
いつもより遥かに熱い口内へと舌先を差し入れ、やはり火傷しそうなほど熱い舌を、ゆっくりと吸ってやる。
「っん…ぅ…」
眉根を寄せふるりと体を震わせた半助に、これ以上は自分を止められなくなりそうで、平太は名残惜しさを感じながらも、そっと唇を離した。
半助が、ぼんやりと平太を見つめる。
「……」
「続きは治った後で、な…」
平太は半助の耳に唇で触れて、囁いた。
半助は赤い顔で、小さくこく、と頷いた。
翌朝。
半助はすっきりとした頭で目を覚ました。
あれほど重かった体が、今は嘘のように軽い。昨日の午後からたっぷりとった睡眠のおかげで、熱はすっかり引いたようだ。
そんな爽快な気分で布団の中から天井を見上げた半助の頭に、ふと昨夜の出来事が蘇った。
そういえば水を飲みに行った帰り、平太に会ったよな。
それで、どうしたんだっけ…?
熱のせいで、記憶がぼんやりとしている。
平太に連れられて空き部屋に入って…それから…・・。
はっ。
…お、俺…あいつに何て言った…?
『静かにできるなら、いい、ぞ…』
う…うわぁっっっ!!!
なっっ、なんてことをっっっ!!??
ぶわっと顔が熱くなる。
ね、熱のせいだ、熱のせいっ!!
あいつだってわかってるはず…!!
といっても、熱のせいで思いもしないことを口走ってしまったというわけではない。
熱のせいで、抑えがきかなくなってしまったのだ。
本心が、そのまま口から流れ出てしまったのである。
ああ、もうっ!
俺のあほバカおたんこなすっ!!!!
と、そこに横から声がかかった。
「半助、起きたのか。具合は…」
真っ赤な顔をして潤んだ目で天井を睨んでいる半助に、伝蔵の言葉が途切れる。
そして、心配そうに言った。
「まだ熱があるようだな。今日は一日休んでいた方がいい」
「…は…はい…・・」
半助はなんとかそれだけ返すと、もぞもぞと頭から布団をかぶった。
生徒達には申し訳ないが、そうさせてもらおう…。
今日は、とてもじゃないがあいつの顔なんか見られそうにない。
もっともあいつのことだから、どうせ心配して訪ねてくるに決まっているけれど……。