昼休み。
 文次郎は中庭の塀に寄りかかり、小平太・長次・伊作による食後の運動と呼ぶには少々激しいバレーボールの様子を眺めるともなく眺めていた。
 はじめ文次郎も誘われたのだが、今朝の夢の名残をいまだ引き摺ってしまっている文次郎は気分が乗らず、断った。そこをたまたま両手いっぱいにトイレットペーパーを抱えた伊作が通りかかり、小平太に無理やりメンバーに引きずり込まれたというわけだ。
 「これ医務室に持って行くところなんだけど…」とぶつぶつ文句を言っていた割には、結構楽しげに付き合っている。

 と、食堂の方角から、まさに文次郎の目下の悩みの種がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
 やはり昼食を終えたところなのだろう。

 (背、高いよな。でもやっぱり童顔だな)

 校庭にいる同級生達と比べても、全く世間ズレしていなそうな、呑気な顔をしている。
 だがもちろん、そんなただの青年でないことは、百も承知済みだ。

 (あ、、、、、こっちに来る)

 そのまままっすぐ職員室へ向かうのかと思いきや、なぜか彼はまっすぐ文次郎の方へと歩いてくる。
 今朝の夢のことを彼が知っているわけはないのだが、それでも今この人と顔を合わすのはできれば避けたいと、文次郎は半助とは反対方向へ足を向けた。
 しかし。

 「潮江!」

 よく通る声で呼ばれる、自分の名。

 (………)

 文次郎は目を閉じてゆっくりと息を吐き、今朝から幾度となく反芻し続けた光景を強引に頭の中から追い出し、くるりと教師に向き直った。
 半助は少しだけ小走りに、文次郎のところへやってきた。

 「昨日、またきり丸のアルバイトを手伝ってくれたんだって?」

 教え子の内心の葛藤など思いもつかないであろう彼は、明るい目で文次郎に笑いかけた。

 「ええ。先週から頼まれていたので」

 一年は組のきり丸には、小平太と長次とともに、ちょくちょく子守りのアルバイトを手伝わされている。自分達三人による子守りはなぜか評判がよく、昨日も以前訪れた家から名指しでリクエストがあったのだ。

 「きり丸が教室で楽しそうに話してたぞ。お前を連れてくと子供達が“ギンギンのお兄ちゃんが来た〜”って大喜びするんだって。六年生は就職活動もあるし暇じゃないだろうに。ありがとうな」

 「いえ…、いい息抜きになりますし。あいつには逆に教わることも多いので」

 「金儲けの術とかか?」

 半助がくるんとした目で、いたずらっぽく笑う。
 こんな顔をすると、とても十も上には見えない。

 「それもそうですが…、昨日もきり丸、最後は疲れて寝ちゃって。赤ん坊と並んで、同じ顔してすやすや寝てるんですよ。本当ならまだ親に甘えていい年なのに、あんな風にアルバイトをして一人で自分の学費を稼いでいる姿を見てると、小平太も長次も俺も、自分たちにできることだったら何でも力になってやりたいって、そう思うんです」

 その境遇をつい忘れてしまうほどいつも元気に笑っているあの少年に対し日頃感じていたことを、文次郎は率直に告げた。
 半助はそれをじっと黙って聞いていたが、文次郎が話し終えると、ふ…と小さく息を吐き、それからふわりと柔らかく笑った。

 「――ありがとう、潮江」

 文次郎をまっすぐに見て、嬉しそうに微笑む。

 「そんな風に言ってくれる先輩達がいて、あいつは本当に幸せ者だな」

 その笑顔に、トクンと、文次郎の心臓が跳ねた。

 ……。

 「けど、あんまり無茶なことを頼まれたら、ちゃんと断れよ。じゃないと際限なく言ってくるからなー、あいつ」

 そう言って溜め息をついて苦笑する目には、けれど限りない愛おしさが滲み出ていて。

 (そういえば、きり丸は休みの間はこの人の家で過ごしているのだったか――)

 文次郎はクスリと笑った。

 「実感ですか?」

 「ああ、そうだよ」

 半助も可笑しそうに笑い返す。
 二人でくすくすと笑い合いながら、文次郎は、


 あ。なんか、楽しい――


 と感じた。
 まるで、恋人と話しているような。
 いや、結衣といるときでさえ、文次郎はこんな気持ちになったことはなかった。
 それはとても自然で、優しく、けれど不思議なほど強い感情で。


 ……俺……。


 文次郎がそんな自身の感情に戸惑いを覚えた、そのとき。
 ゴーンと昼休み終了を告げる鐘が響き渡った。

 「お、もうそんな時間か。悪かったな、休み時間に呼び止めてしまって」

 「い、いいえ!!」

 思わず口から飛び出た否定の言葉は、不自然なほど力の籠ったもので、言った自分が吃驚する。
 案の定半助は少し不思議そうに首を傾げ、それから「じゃあな」と微笑んで、職員室の方へ駆けて行った。




 ………………。

 その後ろ姿を見送りながら、文次郎は呆然と立ち尽くした。

 ほんのわずかな時間、わずかな言葉を交わしただけなのに。

 こんなに、楽しいだなんて。
 こんなに、嬉しいだなんて。

 (まずすぎるだろ、俺…!!)

 文次郎は頭を抱え込んだ。

 半助が忍術学園に教師としてやってきたのは、三年前。
 文次郎が三年生のときだった。
 それから今日まで交わした会話は数知れず。
 だというのに。

 どうして今更、こんなことになってしまったのか――。


 『心配には及ばん、これは恋愛感情じゃない』

 今朝仙蔵に言った言葉が、蘇る。

 (恋愛感情じゃ、ない……?)

 何をしていてもその人のことが気になって仕方がなくて。
 一言言葉を交わしただけで、どうしようもなく嬉しくて。
 傍にいるだけで、意味もなく幸せで。
 その笑顔を見ていると、なぜか胸が苦しくなる。


 そんな感情の名は――。


 文次郎の知っている限り、たったひとつしかなかった。







おまけ


<<   novels top