男で。
 十年上で。
 “あの一年は組”の担任で。
 苦労性の胃痛持ちで。
 いい大人なのに練り物も食えないで。

 よく笑って。
 よく怒って。
 そして。
 信じられないほど強くて――。





 『ん…っ。潮、江…っ』

 『っ先生…好き、だ…っ』

 『あっ…ぁ…んんっ…ああ…!』

 『土井、先生…!』




 「――んせい…っ!」

 はッ。

 …………………夢、か。

 眠りから覚めたばかりの体を支配する何とも言えない気だるい倦怠感のなか。
 朝陽に照らされた見慣れた天井の染みと、チチッチチッと庭で囀る鳥の声が、文次郎に朝の訪れを告げていた。

 「…………」

 って、俺………。

 次第に覚醒してきた脳は、己の下帯を濡らす生温かな感触のその意味を、否応なく文次郎に自覚させた。
 にわかには信じがたく、布団をめくる。
 確認するまでもないが、しないではいられない。
 恐る恐る、そこに触れてみて。

 …………………。

 文次郎はがっくりと肩を落とし、再び布団につっぷした。
 彼だって十五の少年。
 こんな目覚めも決して初めてではない。
 しかし、こうなった原因が大問題なのだった。
 目を覚ました今も生々しくおぼえている、あの夢の内容が――。

 衝撃のあまりなかなか浮上できずに布団に顔を埋めていた文次郎は、ふと、隣から自分に向けられている視線を感じ、ゆっくりと顔を上げた。
 そこには、いつもと変わらず感情の読めない顔で、文次郎をじっと見ている同室人。

 「……頼むから、今は何も言わないでくれ……」

 文次郎はどうにかそれだけを、絞り出すように言った。
 ただでさえ自己嫌悪で死にそうなのだ。
 ここに追い打ちをかけられたら、自分は確実に死ぬ。

 だが。

 「ああ、言わないさ。お前が結衣以外の、とんでもない相手の名を呼んで夢精した、なんてな」

 同室人、立花仙蔵は、淡々と無情に文次郎にトドメを刺した。

 「……お前ってさ、ほんとに俺には優しくないのな……。知ってたけど……」

 「お前は私に優しさを期待したのか?」

 心底吃驚した顔で問い返されて、あいかわらずの同室人に文次郎は苦笑するしかない。

 もっともこんな夢を見てしまった事実に比べれば、仙蔵にそれを知られたという事実の方は文次郎にとってさほどショックなことではなかった。
 仙蔵とはなぜか入学以来ずっと同じクラスで、長屋の部屋もずっと一緒。
 つまり、十から十五という心と身体が最も変化する微妙な時期を狭い一室で共に過ごしてしまった自分達の間には、望むと望まざるとにかかわらず、秘密と呼べるものが存在する余地は皆無なのだ。
 今更、である。

 「…あの人は、やめておいた方がいいと思うがな」

 ぽつりと呟かれた仙蔵の言葉に、文次郎は間髪おかず言い返した。

 「心配には及ばん、これは恋愛感情じゃない。――まだ少し混乱しているだけだ。それぐらい、あの演習は刺激的だったから……」

 「…ふぅん」

 「それに、俺には結衣がいる。お前だって知ってるだろ?」

 「ああ」

 仙蔵はやはり感情の読めない顔で軽く頷いて、自分の布団を畳みはじめた。
 これ以上この話題には興味がないというようなその様子に、文次郎は小さく安堵の息を吐く。


 くの一教室の六年の結衣とは、付き合って四ヶ月。
 向こうからの告白がきっかけで始まった、文次郎が初めて付き合った相手でもある。
 初めて彼女を抱いたのは、ひと月目の夜、ともに実習を兼ねた任務の帰りだった。
 文次郎はそのとき、女とはこんなに細く柔らかいものかと吃驚した。
 自分の体と全然違う。
 あまりに華奢なそれに壊してしまうのではないかと恐る恐る触れた自分に、結衣は何をそんなに怖がっているのだと可笑しそうに笑ったものだ。
 守ってあげたくなる、彼女は文次郎にとってそんな存在だった。
 なのに。

 ――あの人も。
 性などとは最も遠い所にいるような、いつも涼しげに笑っているあの人も、誰かとああいう行為をしたりするのだろうか。
 どんな風に、感じるのだろう。
 どんな声を上げて、どんな顔で、達するのか――。

 と、夢の中の妙にリアルだった彼の感触を思い出し、文次郎は片手で口元を覆った。

 ……なにを考えているんだ、俺は……。

 再び自己嫌悪の海に沈んだ文次郎は、仙蔵が自分に声をかけることなく食堂へ行ってしまったことに、しばらく気がつかなかった。






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