採点を全て終えた頃には、だいぶ陽が傾いていた(点数については胃の健康のために忘れることにした)。
 今日は五月とはいえ七月並の暑さで、ずっと屋内で作業をしていた半助の服は汗でじっとりと湿り、気持ちが悪かった。

 (黒い布は暑さが倍増だよなあ。その点、六年の服なんか涼しそうでいいよな)

 先程の平太の若草色の服を思い出しながら、夕涼みがてら、半助はぶらぶらと忍たま長屋の方へ足を向けた。目的は特にない。


 長屋の付近には、同じように外で涼んでいる生徒達がちらほらといた。
 本を読んだり、刀や手裏剣の手入れをしたり、銘々が思い思いに過ごしている。
 夕飯までは、まだすこし時間があった。

 (晩飯はなにかなー)

 半助はぶらぶらと歩きながら夕食の献立に思いを巡らす。
 伝蔵の話では、試験最終日の晩はいつも、食堂のおばちゃんが腕を奮ってスペシャルメニューを作ってくれるのだそうだ。

 (……まさか“おでんスペシャル”なんてことはないよな。おばちゃん、俺が練り物苦手なの知ってるもんな。……………。いやいやないない、大丈夫だ……)

 ――んせい

 (……だが待てよ。万が一学園長がリクエストなんぞしていたら……)

 「土井先生ってば!」

 とんっと肩を叩かれる。

 「わあ!!……なんだ平太か。脅かすなよ」

 いつのまにやら六年長屋の方まで歩いていたらしい。 

 「脅かしてなんかいませんよ。何してるんですか、こんな所で?」

 「いや、ただの散歩」

 「…ふーん。先生、ぶつぶつぶつぶつ独り言言っちゃって、俺が呼んでるのにちっとも気付かないんだもんな。もう耄碌ですか?はやく下の世話してくれるお嫁さん探さないと…いや、耄碌じーさんに嫁いでくれるモノ好きはいないな。残念だったな先生、手遅れだ」

 「相変わらず口の減らない奴だなー。山田先生は俺ならいくらでも相手はいるって言ってくれたぞ」

 ふふん、と半助は胸を張った。

 「はは、冗談ですよ。でも、そうだな。土井先生は可愛いから、女は放っておかないでしょうね」

 「珍しく素直だな。ていうか、可愛いって…。なんか山田先生にも似たようなことを言われたぞ、母性本能がどうとか。格好いいとは言ってくれんのか」

 女性に好かれるのは嬉しいが、理由が“可愛い”では、喜んでいいのやら微妙である。

 「何言ってんですか。格好いいっていうのはね、俺みたいなことを言うんですよ」

 「――わるい、暑さのせいで耳がおかしくなったみたいだ」

 「先生こそ失礼だなあ。別にいいけど」

 大して失礼とも思ってなさそうな呑気な口調で、平太が言う。

 実のところ半助は、平太がくの一教室において一、二を争う人気であると、同僚教師から聞いて知っていた。が、悔しいので黙っている。ちなみにくの一達の間では半助も「可愛い♪」と人気が高いのだが、半助はそのことを知らない。知らぬが仏、である。

 「でも、もてるといえばやっぱり利吉君ですかね、悔しいけど」

 やはり全然悔しくなさそうに平太は言った。

 「利吉君って、山田先生の息子さんの?」

 「ええ。ああそっか、土井先生はまだ会ったことがないんですね。利吉君が訪ねてくると、くの一教室の奴らが色めき立って大変ですよ」

 「山田先生の息子さん、ねぇ……」

 半助は微妙な表情で呟く。

 「何ですか、その顔。あ、先生、今山田先生の顔を思い浮かべたんでしょう?しっつれいだなー」

 「な…!ちょ、ちがうぞ!これはそういう意味じゃなくてだな、ええと…」

 半助は本気で焦った。
 伝蔵だけは敵に回したくない。
 と、平太が可笑しそうに笑う。

 「ははっ、だから冗談ですって。ほんと半助ちゃんは可愛いんだからな」

 「半助ちゃんとか言うな!教師をからかうなと何度言えばっ…」


 ゴー…ン


 「夕飯の鐘だ。ほら先生、遊んでないで、行きますよ」

 ぽんっと背を叩かれる。

 「……なんだかなあ。どっちが教師だか…。お前、ナマイキ!」

 並んで食堂の方へと歩きながら、半助は平太の髪をくんと引っ張った。

 「痛っ。ちょ、先生!」

 「お前が生意気だからだ」

 「えー。これくらい許してくださいよ。こんな風に先生と話せるのも、あと一年もないんですから」

 「………」

 さらりと言われた言葉に、半助の足がとまる。
 頭に浮かぶのは、昼間の伝蔵との会話。


 『彼らはここを出て、プロの忍者になる。それがどういうことか、土井先生ならようくご存じでしょう』


 周囲の生徒達が、二人を追い越してゆく。
 黙ってしまった半助を、平太が怪訝な顔で見た。

 「…どうしたの先生。あ、もしかして寂しくなっちゃったー?」

 「な…寂しいのはそっちだろうっ」

 平太は僅かの間黙り、それから小さく呟いた。

 「…ええ、そうかも」

 「え」

 思わず半助が顔を向けると、平太は静かな笑みを浮かべて半助を見ていた。
 それは半助が初めて見る、大人びた表情で。

 (……こんな顔も、するんだな……。そうだよな。もう、十五だもんな……)


 しかし平太はすぐにいつもの顔に戻り、にこりと笑った。

 「だからさ、先生。今は甘えさせてよ!」

 「……」

 「それで、いつか一流のエリート忍者になって、先生に会いに来てやるから。その頃までに先生、可愛いお嫁さんを見つけておけよ」

 「っ……余計なお世話だっ。お前が一流忍者になる頃には、俺は一流の教師になってるからな。嫁さんの一人や二人!」

 「一人や二人って……おいおい」

 「なんだよ」

 「いーえ。ほら先生、せっかくの晩飯が冷めちゃいますよ。行きましょう?」

 と、平太は自然な仕種で片手を差し出した。

 「……なんだ、この手は?」

 「え?――ああ。すみません。先生が可愛い反応するから、ついいつも女の子にしているようにやっちゃった」

 平太はからからと笑った。
 一方、半助は。

 「………」

 (いつもって…。こいつ、なんでそんなに女の子の扱いに慣れてんだ?俺が十五の頃といえば……。ていうか俺、最近手ぇ繋いだのっていつだっけ?………あ、一年の鼻たれどもとだ………)

 突然ずーん…と落ち込んでしまった半助を、平太が不思議そうに見る。

 「おーい、土井せんせ?……なんか今日の先生、おかしいな。いつも以上にぼうっとして。熱でもある?」

 そっと額に掌があてられ、半助ははっと我に返った。

 「だ、大丈夫だ…!」

 「無理すんなよ?」

 「してない!…俺は先に行ってるぞ!」

 それだけ言って、半助は平太を置いて先にずんずんと食堂へ向かった。


 「……何を怒ってんだろうな?」

 ひとり残された平太は、首をひねりつつ、遠ざかる背をのんびりと追う。

 新緑が夕風に揺れる、ある午後の出来事。








  

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