それは、きり丸が半助の家で過ごす、二度目の長期休みのことだった。

 午後の授業を終えた後、きり丸は荷物をまとめ、半助と一緒に学園を出発した。
 いつものように道端に落ちている小銭に慎重に目を光らせながら、そしてその度に先をゆく半助に怒鳴られながら、ようやく半助の家に到着したときは既に夜半近くになっていた。

 …誰か中にいる。

 誰もいないはずの家の窓から、はっきりと蝋燭の灯りが漏れているのを見て、きり丸は緊張して隣にいる半助を見上げた。
 しかし半助は「大丈夫だよ」と軽く頬笑み、「ただいま」と言って中に入っていった。
 「おかえりなさい」と言って彼らを迎えたのは、整った顔をした、利吉さんと同じくらいの歳の青年。
 状況が読めず突っ立っているきり丸の肩に、半助はそっと手を置き。

 「きり丸、彼は多紀平太。忍術学園の卒業生で、俺が初めて受け持ったクラスの生徒なんだ。平太、この子がきり丸だ」

 と紹介した。
 その紹介の仕方から、青年は既にきり丸のことを半助から聞かされているのだとわかった。




 昨夜半助が青年について他に教えてくれたのは、今はフリーの忍者をしていること、そして時々仕事の合間に半助に会いに来ること。
 それだけだったけれど。

 「……」

 きり丸は朝餉の冷や飯と沢庵を掻きこみながら、向かいで青年と談笑している半助の顔を、ちろりと見た。
 なにも特別な話題じゃない。
 最近の学園のことや、青年の仕事のこと、そんなとりとめのない話ばかりだ。
 だけど。

 はじめて見る、表情。
 は組のきり丸や乱太郎達を相手にしているときの顔でもない、山田先生といるときの顔とも違う、きり丸の知らない、半助の顔。

 青年が半助にとって“ただの卒業生”でないことは、すぐにわかった。
 今までだって半助の卒業生という人達が忍術学園に訪ねてくることはちょくちょくあった。
 しかし、こんな綺麗な顔で笑う半助を、きり丸は見たことがない。

 綺麗な。

 そう。
 それはきり丸でさえ一瞬みとれてしまうような、とても綺麗な笑顔だった。
 半助とは学園で朝から晩まで一緒にいてようく知っているはずなのに、なぜか今は全然知らない人のような感じがして、きり丸はすこし落ち着かなかった。
 これは一体何なんだろうと、昨夜からずっと気になっている違和感の正体を一生懸命考えていると、ふと、半助と話している青年の顔が目に入る。
 半助を見る、その表情。

 あ…。

 その瞬間。
 ストン、と。
 すべてが、はっきりとわかった。


 先生には、“そういう人”がいるんだ。
 大切な、人が――。


 そしてほぼ同時に。
 自分はここにいちゃいけない、ときり丸は思った。


 “ここは、お前がいる場所ではない”


 きり丸は食べ終わったばかりの茶碗を床に置き、すくっと立ち上がった。

 「アルバイトに行ってきますっ」

 「え。だってお前、今日はアルバイトはないって…」

 半助が吃驚した顔できり丸を見る。

 「思い出したんすよ。武之庄さん家のゴンタの散歩と、お慶さん家の子守り!」

 「ちょ、おい、きり丸…!?」

 困惑したような半助の言葉を無視して、きり丸はばたばたと荷物をまとめ、「行ってきます!」と家を飛び出した。
 夕飯までには戻れよー!という声が、背中から追いかけてきた。




 結局きり丸は、半助に言ったとおりのアルバイトをして、夕方までの時間を過ごした。
 どケチの性で、時間を無駄に潰すことができなかったためだが。

 そして今。
 きり丸は家の戸の真ん前で、突っ立っていた。
 そんなきり丸を馬鹿にしたように、頭上でカラスがかぁかぁと鳴いている。

 「……」

 きり丸は、冷や汗をかいた両の掌をぎゅっと握り締めた。
 家に入るのが、怖かった。
 もし拒まれたら…。
 そう思うと、怖くてたまらなかった。
 半助は絶対にそんなことをしないって、笑って迎えてくれるって、わかっているのに。

 『…あんた、あの子をいつまでうちに置いとくつもり?』

 大人達の間で幾度となく交わされてきた会話が、きり丸の頭の中でぐるぐるとまわる。

 『そんなことを言ったって、親も親戚もいない子を放り出すわけにもいかんだろう』

 『でもうちが面倒をみる義理だってないじゃないの。うちの子だけでも手一杯なのに』……



 「何ぼうっとしてんだ?自分ちの前で」

 !?

 突然後ろからかけられた声に、きり丸は仰天して体を飛び上がらせた。
 振り返ると、青年が裏庭の井戸から汲んだ水を手に、怪訝そうにきり丸の顔を見ていた。

 「……“先生の家”、の間違いじゃないすか……?」

 「はぁ?…なーにわけのわからないこと言ってんだよ」

 青年が、心底呆れたように言う。

 「そんなこと、間違ってもあの人に言うなよ。本気で拗ねちゃうぜ。いや、泣いちゃうな」

 「…そんなこと、ない」

 「いや、あるね」

 「…なんであんたにわかるのさ」

 「わかるよ。お前を見るあの人の顔を見てれば、お前のことをどんなに大事に思ってるかなんて、すぐにわかる」

 「……」

 「俺には、あの人の思ってることは何でもわかるんだよ」

 青年は自信満々に言い切って、悪戯っぽく笑った。

 「……」

 それって…・・
 やっぱり…・・

 「…あの…。先生と…先輩って……その…」

 「なんだ?」

 「えっと…だからさぁ」

 きり丸が言い淀んでいると、青年がにこりと笑う。

 「俺と先生がどういう関係か、知りたい?」

 どきんっ。

 「や…、やっぱいいっ」

 慌ててぶんぶんと大きく首を振る。
 しかしくすくすと楽しげに笑っている青年に、どうやら自分はからかわれていただけらしいとわかった。
 きり丸は真っ赤な頬を膨らませて、青年をじとっと見上げた。

 ち、ちくしょー。
 子供にだって、心の準備ってもんがあるんだよっ。

 何て言い返してやろうかときり丸が考えていると、突然がらりと戸が開いて、にゅっと半助の顔が現れた。

 「なにをやってるんだー?お前達」

 「あ、先生…」

 「きり丸。そんなところにいないで、さっさと中に入れ。すぐに夕飯だぞ」

 「は、はい」

 促されて、無言で敷居を跨いだきり丸を、半助がじっと上から見つめてくる。

 「…な、なんすか…?」

 「何か忘れてるだろ?」

 「あ……えっと……。…ただいま」

 小さくぼそりと言う。
 すると半助は、いつもの笑顔でにっこりと笑った。

 「おかえり、きり丸」

 ぽんっと大きな手が頭に置かれる。
 きり丸はなぜだかひどく照れ臭くなって、慌てて下を向いて赤く染まった頬を隠した。

 …そういえば先輩はどこへ行ったんだろう。
 いつの間にかいなくなった青年を目で探すと、奥の土間で夕飯を作っていた。
 鼻歌を歌ったりして、妙に楽しそうだ。
 そういえば料理が趣味とか言っていたっけ。
 漂ってくるいい匂いに、腹の虫がぐぅと鳴る。
 ぼけっとその様を眺めていたら、いきなり背後からぐいっと襟首を掴まれた。

 「うわっ」

 見ると、半助がじっとりときり丸を見下ろしている。

 「……きーりーまーるー……」

 「な…、なんすか?」

 そのただならぬ気配に、きり丸は頬をひきつらせた。

 「なんすか、じゃない…!その後ろに隠してるものは何だ!」

 ぎくり。

 そこには、こんもりときり丸の背丈ほども積み上がった大量の洗濯物の山。

 「アルバイトは自分で出来る量以上は引き受けるなと、何十回言ったらわかるんだぁぁぁ!!!」

 「ぼ、僕は先生がせっかくの休みに何もやることがないとつまらないんじゃないかなーって心配して…ふがっ」

 「そんなことを言うのはこの口かー!」

 両頬をぐいぐい力いっぱい引っ張られる。

 「へんへー!いはいへふ!!!」

 「くすぐりの刑〜!」

 「ふひゃ!せ、せんせー!だめ!そこ反則だって!うひゃ、うひゃひゃ!!」

 笑いながら両手足をばたつかせて暴れていると、可笑しそうにくすくす笑ってふたりの方を見ている青年の顔が目に入った。

 ……。
 よーし。
 明日は先輩にも、アルバイトを手伝って“もらう”ことにしよう。
 人手も増えたことだし、これからはもっともっと沢山のアルバイトを引き受けるぞぉ!

 半助に羽交い絞めにされながら、きり丸はさっそく頭の中で算盤を弾いた。







>>