その後は、半助の体の事情もあり、家の中でごろごろと過ごした。
食材はたっぷり買い込んであるので、外へ出る必要はない。
午前中は、とりとめのない雑談をして過ぎた。
午後になり半助が、そういえば、と忍具をガラガラと床に並べ出した。
特に目新しくもないそれらを、平太は横から覗き込む。
「何をするんですか?」
「せっかくだし、手入れをしておこうかと思って、な。普段は忙しくてなかなかできないから、まとまった時間があるときにやるようにしてるんだ」
そう言って、半助は棒手裏剣を手に取り、丁寧に研ぎ始める。
平太が見るともなくそれを眺めていると、突然、ヒュンッと風を切って手裏剣が平太の眼前を通り過ぎ、トンと壁に突き刺さった。
「わ…っ。いきなり何するんですか!危ないじゃないですか!」
がなり立てた平太に、半助がからからと笑う。
「はは。お前を狙ったわけじゃないんだから、大丈夫だよ」
そう言って半助は立ち上がり、突き刺さった手裏剣を引き抜いた。
よく見ると、壁のその部分だけ二重に板が貼られており、同じような傷跡がいくつもついている。いつもこうして的として使われているらしい。
「研ぐと微妙に重さや重心が変わるだろ?それを確認してるんだ」
へぇ…と平太は感心して、半助の手元を眺める。平太も忍具の手入れはもちろんするが、研いだ後の重心までは考えたことはなかった。
しばらくして、半助が再び座ったまま、ヒュン、とそれを打った。
……あれ……?
平太は、首を傾げた。
「先生、それ、もう一回やってもらってもいいですか?」
「え…?かまわないが、どうかしたか?」
「お願いします」
半助が再び打つ。
……やっぱり、違う。
「どこが違うかはわからないんですが、俺が打つときと、微妙に違うんです。先生の方が無駄がないというか…」
「ふーん…。ちょっと、やってみろ」
そう言って、手裏剣を渡される。
平太が打つと、それは半助のときと全く同じ位置に突き刺さった。結果だけ見れば、何も変わらない。
「ふぅむ…」
半助は何かを考えるように平太と的を交互に見ていたが、徐に立ち上がり平太の背後へやって来た。
「腕の力、抜いて」
言われたとおり、力を抜く。
半助は片手で平太の腕をとり、位置を固定する。
「これで、もう一回やってみな」
「はい」
ヒュンッ。
………あれ?
それは、的から外れ、脇の壁に突き刺さってしまった。
「…なるほどな」
半助は、了解したように微笑んだ。
「ほんの僅かだけど肩に余分な力が入ってる。ちゃんと綺麗に的に当たってるし、些細なことだから、敢えて注意されることもなかったんだな。俺も今まで気付かなかったくらいだし。…でも、直した方がいいな。普通の状態なら問題はないが、長期戦の場合は肩に負担がかかる」
平太はきょとんとした顔で、斜め上にある半助の顔を見た。
「へぇ…。全然気付かなかった」
「すぐに直るよ。この腕の位置でしばらく練習してみるといい」
「はい。ありがとうございます」
「ああ」
「…ふふ」
不意に笑みをこぼした平太を、半助が不思議そうに見る。
「なんだ?」
「やっぱり、先生は“先生”なんだなって思って」
半助はぱちりと瞬き、それから、嬉しそうに微笑んだ。
「ああ、そうだな…」
「そんな先生も…大好きだよ…」
そう言って、平太は半助の首に腕をまわし、唇を寄せた。
二人の唇がまさに触れ合おうとした、そのとき――。
『はんすけー!!!』
「!!?」
表で叫ばれた声に、半助はばっと体を離した。
「…とっ、隣のおばちゃんだ!平太!この忍具、全部押入れに隠せ!!!」
「は、はいっ」
平太がちゃんと隠したのを確認してから、半助は戸を開けた。
途端、おばちゃんは何の断りもなく、ズカズカと中へと入ってきた。いつものことである。
「遅いわねー、何やってんのよ。…あ、平太くーん」
おばちゃんは半助を無視し、囲炉裏端にいた平太に妙に愛想のいい声をかけた。
「これね、夕飯作りすぎちゃったの。よかったら食べて」
そう言って平太に差し出された盆を覗くと、大皿小皿からデザートまで、随分と豪勢な食事が並んでいた。一応二人分ある。
「うわ、うまそうー」
「平太君のために、おばちゃん、がんばっちゃった!」
…作りすぎたのではなかったのか?
ていうか何なんだ、この雰囲気は…。
半助は呆然とそのやり取りを眺めた。
「ありがとうございますー」
「もうっ、お礼なんていいのよぅ、水くさい!」
じゃあまたね平太君〜と言って、結局一度も半助の顔を見ることなく、おばちゃんは帰っていった。
「よかったですね、先生。今夜は夕飯を作らないで済みましたよ」
平太はにこにこと笑っている。
どうやらこいつはすっかりおばちゃんのお気に入りになったようだ。
平太は本当に人に好かれやすい性質を持っている。
特に、女性に――。
「、、、おばちゃん、俺に飯なんか持ってきてくれたことないぞ。お前、本当に年齢問わずもてるよな」
…ん…?
なんか面白くなさそうな口調になってしまった…。
平太は案の定流してくれず、面白そうに半助の顔を見た。
「ふふ。なぁに、先生。焼き餅ですか?」
「ばっ、そんなんじゃない…!」
平太はくすくす笑いながら、半助の体を抱き込んだ。
なんだか我儘な子供があやされているような形になり、半助はふてくされたようにそっぽを向いた。
そんなこんなで時間はあっという間に過ぎ、二日目の夜を迎えた。
「………」
夕飯を食べ終わり、体も清めた半助は、目の前の布団をじっと睨みつけた。
蝋燭の灯がゆらゆらと揺れ、布団の上に影を落とす。
平太は今、向こうで体を清めている。
昨夜の全く逆である。
やっぱり今夜も……する……のだろうか……。
半助の頭は今、そのことで一杯だった。
する…よな、たぶん……。明日にはあいつ、帰るんだし……。
昨夜と打って変わり、半助は今、羞恥に体を硬くしていた。
自分は……したい……。
明日からは休みで、次会うのは新学期であることを考えれば、次回はいつあるかわからない。
だが、どうやってその気持ちを示せばいいのか、半助には皆目わからなかった。
まさかそのままストレートに言えるわけもなし。
昨夜誘ったのは半助の方だったが、あのときはただ必死だった。今あれと同じことをやれと言われても、とてもじゃないが、できない…。
そこに、平太が部屋に入って来た。
枕元に正座し、膝の上でぎゅっと両の拳を握り締めている半助に、平太は苦笑する。
「…先生、そんなに緊張しないでよ。なんだかすごく悪いことをしてる気分になる」
そう言って、平太は半助の体に腕をまわすと、ゆっくりと自分の体ごと布団に横たえた。
硬いままのその体を抱き締めて、平太が囁く。
「このまま、寝る…?それでもいいよ…。昨夜先生が全部をくれたの、俺、すごく嬉しかった。だから、先生の体が辛かったら、このまま寝よう……」
そう言って背を撫でられ、半助は困り切ってしまった。
半助が愛してやまない平太の優しすぎる性格に、こんな形で困らされることになろうとは……。
このままでは、本当にただ眠るだけで終わりかねない。
半助は、平太の寝巻の背を強く握った。
「……ない…」
「え…?なに、先生?」
あまりにも小さな声でぽそぽそと呟かれた言葉を、平太が聞き返す。
「…っだから…体は辛くないっ!」
そう叫んで、半助は真っ赤になった顔を平太の胸にぎゅっと押し付けた。
これが、半助に言える精一杯だった。
平太は目を丸くして半助を見ていたが、すぐに半助の体を仰向けにさせ、その唇をちゅっと啄ばんだ。
「ん…わかった。ごめんね、こんなこと言わせちゃって…」
羞恥に潤んだ大きな目に平太が微笑みかけると、半助は返事をする代わりにゆっくりと一度瞬いた。
枕元の蝋燭が吹き消され、二つの影が一つに重なる。
闇の中、二人の息遣いだけが染み渡っていった。
翌早朝、出発ぎりぎりまで平太は半助のことを離さなかった。
このような関係になった今、離れ難さはあの夏の比ではない。
最後は教師口調になった半助に促され、ようやく平太が荷物を持ち、戸口に立つ。
「それじゃあ、先生、また」
「ああ、また来年、学園でな」
「今度は逃げないでくださいよ」
夏休み明けのことを言っているのである。
「あ、ああ」
全く自信はないが、とりあえず頷いておく。
最後にもう一度ぎゅっと半助のことを抱き締めて、平太は出ていった。
平太の後ろ姿を見送りながら、半助は四月前の夏の朝のことを思い出していた。
あの朝も、半助はこうして出発する平太を見送った。
あの夏だけじゃない。考えてみれば、半助はいつも平太が去っていくのを見送っているような気がする。
「また明日」「また新学期に」――。
そして三月、そのときも、自分はこうして彼の後ろ姿を見送ることになるのだろう。
平太には平太の人生があって、半助には半助の人生がある。
それは決して同じものではないけれど。
自分達の前に長く伸びる、いつかは終わるその道を、彼と共に歩いていくことができたらどんなにいいだろう、と。
このとき半助は心から思った。
二人で、一緒に――。
乗り越えるべきものは、まだまだ沢山ある。
それでも、未来は今、温かな明るい色を放って半助の前に広がっていた。
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