「明日、帰ろうと思うんだ」

 この屋敷へ運ばれてから十日目の夜。
 夕食後、部屋で寛いでいるとき、半助は平太にそう告げた。
 今では食事も千影達と一緒にとれるまで体は回復していた。

 「学園ぐらいまでなら歩けると思うし、いつまでも他の先生に授業をお願いするわけにもいかないしな。あいつらも、俺の帰りを待ってるはずだから」

 「一年は組、でしたっけ」

 「そう。毎日が運動会みたいなんだ。きっと今頃、山田先生ひとりで大変だろうな」

 半助は何かを思い出したのか、楽しそうにくすくすと笑った。
 平太の知らない、半助の生活。
 平太の胸に、かすかな寂しさがよぎる。

 『俺は俺で、お前はお前だろ。これまでも、これからも、俺達の人生は同じじゃないんだよ』

 昔、無茶をした自分に半助が言った言葉だ。
 今なら、あの言葉の意味が痛いほどわかる。
 好きだという想いは募る一方なのに。
 会えるのは年に数えるほどというのが現実で。
 今回のように二年近くも離れてしまうこともあって。
 ましてや自分達の仕事は特殊で、互いに話せないことが山ほどある。
 それでも。

 『それでも、平太、俺はお前と一緒にいたいんだ』

 そう、半助は言ってくれたのだ。

 「…わかったよ。正直ものすごく引きとめたいけど、半助には半助にしかできない仕事があるもんな。でも、病み上がりなんだから、無理すんなよ」

 平太がそっと頬を撫でると、半助はああ、と微笑んだ。

 「こんなことになったけど、お前に会えて嬉しかった」

 そう言ってまっすぐに笑いかけてくる顔に、ちくしょう、そんな顔されたらやっぱり帰したくなくなるじゃないか、と平太は思った。
 しばらく無言で見つめていると、ふ、と半助の視線が戸惑うように下げられた。

 「…平太…」

 「ん?」

 「…あの、さ…」

 半助はしばらく俯いて。
 それから、思い切ったように顔を上げた。
 それでも視線は微妙に逸らされたままで。


 「……接吻……しないか…?」


 ……。


 半助の口から出た思わぬ言葉に、平太は動きを止めた。
 思わずまじまじと半助を凝視してしまう。

 「……」

 平太が何の反応も返せないでいると、半助は何かを誤解したのか一瞬くしゃりと泣きそうな顔になり、それから慌てたように顔を伏せた。

 「あ…俺、何言ってんだろうな……。…すまない…。今のは忘れて…」

 言葉を重ねる半助の唇を、気付けば平太は自分の口で塞いでいた。

 「ン…!」

 頭を掻き抱くようにして、深く口付ける。

 「ふ…っ…ぅ…」

 甘い吐息。
 熱い舌。
 切なげに寄せられた眉。
 この一年半、ずっと胸の奥に抑え込んできた想いが堰を切って溢れ出し、洪水のように平太を襲う。
 止めることができない。
 際限なく求めてしまう前に、全ての理性をかき集めて、平太は唇を離した。

 「…すこしだけ、待ってて」

 じっと平太を見つめる半助にそれだけ低く言って、平太は部屋を出た。




 それから半助が言われたとおりに部屋で待っていると、急にばたばたと玄関の方が騒がしくなった。
 何やら話し声がし、続いて戸が閉まる音が聞こえ、再び静寂が戻る。
 何かあったのだろうかと不思議に思っていると、平太が戻ってきた。
 そして何も言わずにすたすたと真っすぐに押入れへと向かい、布団を取り出して、畳に敷き始める。
 半助は呆然とそれを見守った。

 「へいた…?」

 平太は「これでよし」と独り言のように呟くと、半助の体をふわりと抱き上げ、壊れ物を扱うようにそっと布団の上に寝かせた。
 そして体重をかけないように覆いかぶさり、口付けを再開した。
 右手が合わせから差し入れられ、肩から着物が滑り落ちる。

 「え…ちょ、」

 「あれだけ煽っておいて、まさか接吻だけだなんて言わないよな」

 裸の肩に口付けを落としながら、平太が囁く。
 それはもちろん半助だって、それ以上のことはしたい。
 しかし、千影達がいる同じ屋根の下でだなんて、間違っても考えられなかった。
 だから半助は、“接吻”と言ったのだ。
 半助は慌てて平太の腕から逃れようとした。

 「ち、千影さん達が」

 「千影達なら今出て行ったよ」

 「…っ」

 「今夜は帰ってこない。帰るなって言っておいたから」

 さっきの音は、その音だったのだ。

 「今この家にいるのは、俺達ふたりだけだ」

 平太はそう言って手を止め、半助の顔を上から見つめた。
 半助の答えを、待つように。

 ……。

 半助は。
 静かに、瞼を下ろした。




 「…ンっ」

 再び口付けが与えられる。
 半助は薄く唇を開き、より深くへと平太を誘った。
 自らの気持ちに素直に従った途端、半助の心と体は急速に平太を求め出していた。

 「ごめん、たぶん、まだ辛いと思うけど…」

 平太の手が、半助の肌を露わにしていく。
 触れられたところが熱をもって粟立つ。

 「い、い」

 「…」

 「いいから…っ」

 「半助…」

 平太への想いが次々と溢れ出てくる。
 制御できない。
 たとえ教師として失格でも、今だけは、怪我のことなど忘れて、明日のことなど忘れて、無茶苦茶に抱いてほしかった。

 しかし半助の想いとは裏腹に、平太の愛撫はあくまで優しく、半助だけに快楽を与え、絶頂へと導いていった。
 もう少しで達してしまいそうになったところで、半助は平太が今夜自分を抱かないつもりなのだと気付き、平太の肩をぐ、と掴んだ。

 「…や…だ…」

 「半助」

 平太が宥めるように口付けてくる。

 「いや…だ…っ」

 半助は、必死に首を振った。
 気持ちばかりが溢れて、言葉をうまく紡げない。
 まるで子供にかえってしまったような心細さを感じ、半助は泣きそうになった。

 ひとりだけなんて、絶対に嫌だった。
 平太が半助の怪我を心配してくれていることはわかっている。
 きっとこれは自分の我儘なのだ。
 それでも。
 この一年半、ずっと一人で我慢してきたのだ。
 あんなに求めていた相手が今目の前にいるのに、こうして肌を合わせているのに、ひとりだけなんて――。


 「…き、て…」

 半助は消え入りそうな声で、呟いた。
 こんな懇願を口にするのは初めてだったが、そんなことは全く気にならなかった。

 「お、願いだから…。お前を、感じたいんだ」





 っ…。
 平太は、慌てて視線を逸らせ、奥歯を噛みしめた。
 その言葉と表情だけで、達してしまいそうだったからだ。
 長く息を吐き出してなんとか気持ちを落ち着かせ、もう一度、腕の中から自分を見上げる目を見る。

 「……」

 痛いほど伝わってくる、半助の想い。
 そこに、自分と全く同じ想いを見てとって――。

 平太は、とうとう降参の溜息をついた。

 まったく…、俺の我慢が水の泡だ…。

 「…一度、だけだよ」

 平太の言葉に、半助が小さく頷く。
 平太は半助の頬に口付けながら、両脚の間に手を滑り込ませた。
 それだけで、びくりと半助の体が跳ねる。
 指先が密やかに息づく場所を探り当て、そこを慣らす間、半助の口からは絶えず小さな声が漏れていて、平太は何度も無理矢理に抱いてしまいたい衝動にかられた。
 それでも半助を傷つけたくない一心で、丁寧に慣らしていく。

 「…も…ぅ…」

 やがて、すすり泣きの中に懇願が混じり始め。

 「…だ…め…っ。は、やく…っ…」

 平太は指を引きぬき、半助の足を抱え上げると、そっと自身の熱を押しあてた。

 「力、抜いてろよ…。傷、開いたら、また学園に戻れなくなるぞ…」

 半助がこくこくと頷く。
 本当にわかってんのかな…と苦笑しながら、平太はゆっくりと体を進めていった。
 熱い内部が絡みつき、半助の鳴き声が一層高くなる。

 ぅ…わ…・・。

 そのあまりの気持ちのよさに、平太は眩暈に似た感覚に襲われた。

 「はん…すけ…」

 「ン…」

 最奥に達し、確認の意味を込めて名を呼ぶと、半助が大丈夫だというように小さく頷く。
 平太は半助の背中に負担がかからないように細心の注意を払いながら、できるかぎりゆっくりと動き始めた。

 「っ…」

 半助が辛そうに身を捩る。

 「痛い…?」

 「…ちが…」

 平太が動きを止めて囁くと、困惑したように首が振られる。

 「じゃあ…」

 「…」

 「感じてるの…?」

 「っ」

 図星、か。
 真っ赤になってしまった顔が可愛らしくて、平太は微笑んだ。

 「半助…力、抜いて」

 「む…り…」

 「約束だろ?」

 「っ…」

 泣きそうな目で見つめられ、この人は本当にどこまで可愛いのだ、と平太は苦笑するしかない。

 「息、吐いて…。ゆっくり」

 浮いてしまっている背を撫でながら囁くと、半助がふ…と息を吐き、わずかに力が抜ける。
 それでも動いてしまう腰をやんわりと布団に押さえつけて、平太は溢れる愛おしさの中で、優しく優しく抱いた。

 「ん…・やぁ…っ」

 両脚が平太の体をぎゅっと挟み込み、半助の口から、聞いたことのないような甘い声が間断なく漏れ始める。

 「ぅ…んッ…」

 「半助が感じてるのが、わかるよ…。…すげー、嬉しい」

 半助が幸せな気分になってくれることが、平太は何よりも嬉しいのだ。

 「んん…」

 半助がたまらなそうに視線を伏せる。
 涙で濡れた睫毛が、ふるりと震える。
 平太は息をのんで、一年半ぶりのその姿を見つめた。
 いつまでも、見ていたい。
 いつまでも、このままでいたい。
 だが、それは自分の方が無理だった。
 平太は、ふたり一緒に最後の高みへと向かうため、半助の体を抱え直した。





 翌朝。
 梅雨晴れのからりと晴れた空の下。
 夏のはじまりを告げる強い日差しが、ひと月の間にたっぷりと水分を吸った草木の上に降り注いでいる。
 屋敷の外には、旅装で荷物を手にした半助と、それを見送る平太の姿があった。

 「体、つらくない?」

 「ああ」

 「よかった」

 ふわりと抱きしめられ、ぽんぽんと優しく背をたたかれる。

 「半助の夏休みには、帰れると思う。それまではもうしばらくここで残務処理だけどな」

 そう言って平太は体を離し、半助の髪をさらりと撫でて綺麗に笑った。
 記憶の中より、大人びた笑顔。

 「千影さんと小夜さんに挨拶できなくて申し訳なかったな。あんなにお世話になったのに」

 「助けてもらったのは俺達の方なんだから、気にする必要ないぜ。それと、千影から伝言だ。生徒の就職先に困ったときはクロサギ城が力になるから連絡しろってさ。あいつあれで忍頭らしいから少しは役に立つかもな。せいぜい利用してやるといい」

 「こらこら。そんな風に言ったらだめだろ?千影さんにはお前、大事なことをいっぱい教えてもらってるんだから」

 「…」

 半助が言った言葉に、平太がじっと半助の顔を見る。

 「半助」

 「ん?」

 「…俺、すこしは成長したかな」

 ぼそりと呟かれたその問いに。
 半助はぱちりと瞬き、それからふ、と微笑んだ。
 そして、平太の耳元に口を寄せてこそ…と囁くと、じゃあな!と回れ右して、歩き出した。



 あいつは今、どんな顔をしているだろう。
 きっとそこには、これ以上ない最高の笑顔があるはずだ。
 振り返ってみたい気もするけれど。
 その楽しみは、次会うときまでとっておこう。

 きっと、すぐに会えるから――。





 それから街道をだいぶ進んだ頃。
 はた、と半助は立ち止まった。

 しまった。
 この夏休みはうちでは会えないってこと、あいつに言うのを忘れてた。
 今年からは、新しく小さな同居人がひとり増えたのだ。


 ――ま、いいか。

 半助は小さく微笑み、再び歩き出した。
 初夏の汗ばむ陽気の中。
 元気な可愛い生徒達が待つ学園へと。






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