「今日もお仕事お疲れさま〜っと」
歌うように呟きながら、夕陽に染まる廊下を歩く麗らかな娘。
彼女の名は半子。
忍術学園教師、土井半助の変化の姿である。
あー、腹減ったー。
今回の任務は予定外のハプニングの連続で、めいっぱい運動してしまった半助の腹はぐーぐー鳴りっぱなしだった。
しかし任務完了の報告さえ済ませてしまえば、もう今日の仕事は終わり。あとは着替えをして、化粧を落として、食堂でおばちゃんの晩ご飯を食べることができるのである。
学園長室の襖は、開かれたままだった。
「学園長、只今戻りました・・・っと、お客様でしたか。失礼しました」
部屋の中には、学園長とヘムヘム、そして赤毛の南蛮人が向かい合って茶を飲んでいた。
ならばまた後ほどと半助が回り右しようとした、その途端。
「Oh!What a beautiful lady!!ヤマトナデシコね〜!!」
「うわっ」
“ヤマトナデシコ”を連呼しながら、南蛮人は大喜びで半助の両手を握り、ブンブンと大きく振った。
目を白黒させている半助に、学園長が笑いながらのんびりと告げる。
「土井先生、こちらはポルトガルから来られたカラメルボーロ殿じゃ。カラメルボーロ殿、こちらは我が校の教師の土井先生じゃ」
「カラメルボーロといいま〜す。よろしくで〜す」
「は、はじめまして・・・」
な、なんちゅうテンションの高い南蛮人だ・・・。
半助はたじろいだ。
だが今まで半助が出会った南蛮人は、皆こんな感じだった。南蛮人とはこういうものなのかもしれない。
「ミス・ドイ!これ、あなたにさしあげま〜す」
そう言って、カラメルボーロは半助の掌にぽんと薄紙の包みを載せた。
・・・?
「・・・お菓子ですか?」
「ノー!シャボンで〜す。これを使えば、あなた、もっとビューティフルになれま〜す」
「・・・しゃぼん?」
とはいかなる物ですか?と聞こうとしたら、学園長の声に遮られてしまった。
「わしも!わしも!わしもビューチフルになりたい!」
「へむへむ!へむへむ!」
「Oooh、Sorry。学園長殿とヘムヘム殿は無理で〜す」
「なっ、なんじゃとーーー!!それはどういう意味じゃ!!」
「へむへむ〜〜〜!!」
・・・・・・。
すっかり口を挟むタイミングを逸した半助は、大騒ぎの学園長室をそっと後にした。
手の中には“しゃぼん”を持って。
それから数刻後。
夕餉を終え、明日の授業の準備も終えた半助は、風呂場の小さな椅子に腰かけ、掌の中の“しゃぼん”をじっと見つめていた。
時間が遅いため、他に人はいない。
半助は、いつもであれば入浴後に翌日の授業の準備をするのであるが、今日は違った。
“しゃぼん”を使うからである。
あれから半助は“しゃぼん”とは何か、どう使えばよいのかを、新野先生に教えてもらった。
曰く、風呂場で体を洗うものなのだそうな。
半助にとっては初体験である。
好奇心旺盛な半助は、時間を気にせずゆっくりこれを試したいと思った。
そして全ての用事を終えさせた頃には、こんな時間になってしまったのである。
幸い、湯はまだ温かかった。
新野先生に教えてもらったとおりに、手拭いを濡らし、そこに“しゃぼん”をぐいぐい塗り付ける。
そして、恐る恐る肌を擦ってみると――。
わぁ・・・。
もこもこ。ふわふわ。
白い綿菓子のような泡が次々と現れてくるではないか。
す、すごい・・・っ。
ほんの少し塗っただけなのに、どこからこんなに沢山の泡がでるんだろう。
そしてこの、なんともいえない心地よい、甘い匂い。
ごしごし。ごしごし。
ふんふんふ〜ん♪
すっかり楽しくなってしまった半助は、ご機嫌で鼻歌を歌いながら、髪の毛から足の指まで体中をくまなく丁寧に時間をかけて洗った。
そして。
ざばーっ。
頭の上から湯をかぶって泡を洗い流すと。
おお!!
お肌はつるつる、すべすべ。
まるで女の肌のようになっていた。
もちろん髪の毛もツヤツヤである。
南蛮人はこんなに楽しい物を毎晩使っているのか。なんてうらやましい。
ちゃぷん。
半助はうきうきで湯船に浸かった。
だが――。
ざばっ。
・・・・・・・・・・・・・。
湯から上がって、半助は自分の肌から立ち上る強い匂いに気がついた。
“しゃぼん”の匂いである。
ま、まずい。
忍者がこんな甘ったるい匂いを ぷんぷんさせてちゃまずいだろ。
忍びとは、いかなるときも無臭でなくてはならないのである。
ごしごしごし。
ざばーっ。
・・・・・・。
ごしごしごしごしごしごしごしごし。
ざばーっ。
・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・ガーン・・・・・・・・・・。
肌が赤くなるほど何度も何度も手拭いで擦ったのに、その甘い匂いは一向に薄らぐ気配をみせなかった。
半助はふらりとよろめき、風呂場の床に手をついて項垂れた。
こ、このままこの匂いがとれなかったら・・・。
俺、もう忍者を続けられない・・・・・・。
結局“しゃぼん”の匂いを全身に漂わせたまま、半助は風呂から上がった。
このまま伝蔵のいる部屋に戻ることなどできるわけもなく、とはいえ学園内をうろついていて誰かに出会ってしまったら一大事と、半助はとぼとぼと裏門を出て、すっかり途方に暮れて裏山を彷徨った。湯上りの身を刺すような真冬の空気も、今の半助にはまったく問題にはならない。
あぁ、夜露がこの匂いを消してくれればいいのに・・・。
俺、どうなっちゃうんだろう・・・。
風に漂う甘い匂いに半助は泣きそうになった。
はぁぁぁぁと長い溜息をついたところで。
「あれ、土井先生?」
!!?
ぎょっとして振り向くと、平太が不思議そうな顔でこっちを見て立っているではないか。
こんな時間だというのに忍服姿である。
だが今はそんなことを訝っている場合ではない。
半助はばっと平太とは逆方向に走った。
「先生!?」
絶対にこの匂いに気づかれてはならない。
しかし忍服ではなく浴衣姿であるため、足に裾が絡みついて上手く走れない。
「う、わ・・・っ」
情けなくこけそうになったところを、後ろから両腕で支えられる。
「はい、捕まえた」
そう言って、そのまましっかりと腕の中に固定されてしまった。
「うぅ・・・」
・・・もう・・・もうぜんぶ終わりだ・・・・・。
「で、どうして逃げたの?」
平太に正面から覗きこまれて、半助の目に涙が浮かぶ。
「ちょ、先生?」
目を丸くした平太に、半助は片手で目をごしごし擦りながら言った。
「お・・・お前こそ、こんな時間に・・・こんな所で何してるんだ・・・」
「俺は明日の模擬演習の担当場所をもう一度確認していただけですよ。気になる所があったから」
「そ、そうか・・・」
「先生こそ」
と言いかけてから、平太は半助の頭にゆっくりと鼻先を近づけた。
「・・・いい匂いがする」
どきん。
ま、まずい・・・っ。
「こっ、これはだな・・・っ」
半助は必死に頭を回転させ弁解の言葉を探した。
だが。
「珍しいですね、先生がシャボンなんて」
「・・・・・・・へ・・・・・・・?」
さらりと問題の物体の名を出されて、半助はきょとんとした。
「シャボンでしょう?この匂い。誰かのお土産ですか?」
「・・・お前、“しゃぼん”を知っているのか?」
「え?ええ、まあ」
平太は、例の夜遊びの頃に、一度だけその手の店の風呂場に置いてあったことがあったため、シャボンのことは知っていたし、使ったこともあった。
半助は涙目で平太の胸倉をつかみ、必死の形相で縋りついた。
「こ、これ!この匂い!どうすれば落ちるんだ・・・!?」
「匂い?」
「ああ!ど、どうすれば・・・!」
「別にどうもしなくても、放っておけば明日の朝には消えてますよ」
「ほ、ほんとうか?」
「ええ」
平太がはっきりと言い切ったので、はぁぁぁぁぁぁと一気に全身から力が抜けた。
・・・・・・よ、よかった・・・・・・。
俺、忍者をやめなくていいんだ・・・・・・。
平太はそんな半助にちょっと首を傾げ、それから片手で半助の濡れた髪を掬った。
途端、ふわりと甘い香りが辺りに漂う。
「先生、シャボンを知らなかったの?」
半助は、脱力したままこくりと頷いた。
「匂いがこんなに強く残るなんて思わなくて・・・、このままとれなかったらどうしようって・・・」
「それで、困って逃げようとしたんですね。俺にまで隠す必要ないのに」
優しい声で言われ、ようやく半助の心は落ち着きを取り戻した。
と同時に、さっきまでの自分の慌てようが今更ながら恥ずかしく思われてくる。
「に、匂いが消えるならそれでいいんだ。俺は帰・・・」
しかし平太は、そのまま掬った髪を鼻先へと持ち上げ。
目を閉じて、そっと香りを嗅いだ。
っ・・・。
先程とは別の意味で、半助の鼓動が早まる。平太が時折不意にみせるこういう色っぽい仕草に、半助はなかなか慣れることができない。
平太は、半助の背を片手で引き寄せ、頭に鼻先を埋めた。
「髪も洗ったの・・・?」
頭皮を、吐息が掠める。
「あ、ああ」
「いい匂い」
「俺は、落ち着かない・・・」
「そう?俺は好きだけどな、この匂い」
色っぽくて――。
囁きとともに、かさついた唇が項に押し当てられた。
ぴくんと半助の肩が跳ねる。
平太の手がゆっくりと半助の体の線を辿りはじめたので、半助は焦った。
「ちょ・・・場所を考えろ・・・っ」
「誰も来ませんよ。もし来ても、気配でわかるでしょう?」
だから、すこしだけ。
そう囁いて、唇が重ねられた。
「んっ・・・」
素早く入り込んだ舌が、半助の舌を絡め取る。
「ふ・・・だ、めだって・・・・・」
柔らかく吸われ、体に甘い痺れが走る。
「ほん・・・とに・・・」
半助の体を辿る手の動きは、明らかな愛撫へと変わりはじめ――。
「・・・ん・・・ぅ・・・っ」
だから・・・、だめだって・・・・
「言ってるだろ!!!」
ゴキ!!!!!
「いっ・・・てー!!!」
拳で思い切り地面へと吹っ飛ばされた平太は、涙目で頬を押さえて叫んだ。
「拳で殴らなくてもいいじゃないですか!!」
「あ、すまん」
つい。
半助は苦笑して、平太の手をとり起こしてやった。
平太の服は泥だらけである。
「ごめんな。でも、お前がなかなかやめないから・・・」
半助が赤い顔で告げると、平太は少し拗ねたように答えた。
「いいですよ、どうせ今から風呂に行くところだったし・・・」
それを聞いて、半助は風呂敷包みから今夜の出来事のすべての根源であるソレを取り出した。
「気に入ったのならお前にやるよ。俺はもうこりごりだ」
しかし、平太は首を振った。
「いりませんよ」
「なんでだ?いい匂いだって言ってたじゃないか」
「そんなもの使ったら、香りで先生を思い出して寝らんなくなる。“そういう使い方”をしてもいいっていうのなら、話は別ですけど」
「そういう使い方って・・・・・・ばっ!なっ、なに言ってんだ・・・!!」
半助は再びバシィィィ!!と平太を張り倒すと、悲鳴を背に聞きながら、真っ赤な顔で歩き出した。
今夜いっぱいは消えないであろう甘い匂いが、半助の体を包み込む。
未だ平太の腕に抱かれているような感覚に捉われながら、今夜眠れそうにないのは俺の方だ・・・と半助は溜息をついた。