・・・・・合わん。
・・・・・・・・・・・・やはり合わん。
はぁぁぁああ。
文次郎は長い長いため息を吐いて算盤から顔を上げ、床の上にバタンと身体を投げ出した。
日中は騒々しいことこの上ないこの校舎も、文次郎の他に誰ひとりいないであろう深夜の今は、物音ひとつなく静寂に包まれている。
――今、何時頃だろう。
風呂から上がって、一度長屋に戻って明日提出の課題をして、それに意外と手間取って、ここに来たときはすでに結構な時間になっていたはずだ。
仙蔵が布団を敷きながら「こんな時間から活動とは、さすが会計委員会は違うな」と鼻で笑っていたが、あいつが寝る時間はだいたい日付が変わる頃だから、もう丑三つぐらいにはなっているかもしれない。
もっとも会計委員会の活動といっても、今この部屋にいるのは委員長である文次郎ひとりで、下級生はいない。
風呂に入りながら今月の帳簿のある部分がふと気になったものだから、ちょっと確かめてすぐに戻るつもりだったのだ、最初は。
それが、いくら計算しても、どうしても収支が合わないのである。
夜が深まるにつれ、部屋の空気も深々と冷え込んできた。
いい加減、疲れた・・・。
ごろんと横になりながら文次郎は、このままここで寝てしまおうかな、と思った。
師走も近いこんな夜に布団もかけずに寝るなど無茶以外の何物でもないが、長屋まで戻る気力がない。帳簿も合わないままだし。
どうとでもなれと文次郎にしては珍しく投げやりに瞼を閉じると、急速に眠気が襲ってくる。
寝るなら蝋燭を消さなきゃ、と半分夢のなかで思ったとき。
部屋の外で「おーい、誰かいるのかー?」と声がした。
(――土井先生)
その声の主を脳が認識した途端、文次郎の眠気は一瞬にして吹き飛んだ。
我ながら現金なものだと呆れながら、それでも心臓が高鳴るのを感じながらいそいそと起き上がる。
(こんな時間に、見回りだろうか)
文次郎が居ずまいを正して「どうぞ」と答えると、す・・・と戸が開き、半助が蝋燭片手に中に入ってきた。
忍服姿かと思いきや何故か寝間着姿で、髪もおろしている。
「見回りですか?」
不思議に思い尋ねると、半助は苦笑を浮かべた。
「いや。部屋で明日の授業の準備をしていたんだけど、必要な本が資料室にあることを思い出して、それで取りに来たんだよ」
そう言って彼は薄い冊子を片手でひらひらと振り、それから床の上に散らばった大量の紙を目にとめて眉を顰めた。
「お前こそ、いくら昼も夜もない会計委員とはいえ、こんな時間まで珍しいじゃないか。何か問題でもあったのか?」
「問題というほどでもないんですが・・・」
文次郎は卓上の帳簿を再び手に取った。
「各委員会の今月の収支を計算していたんですが、何度やってもうちの委員会だけ数字が合わなくて・・・」
「それでこんな時間までか?」
「ええ、まあ・・・。他の委員会ならともかく、さすがに会計委員会の収支が合わないというのはまずいですから・・・」
「ふぅん・・・・・、どれどれ」
半助は蝋燭をコトリと床に置くと、傍らから身を乗り出して、文次郎の手元の帳簿を覗き込んできた。
っ。
息がかかるほどの距離にあるその顔に、文次郎の心拍数が一気に上がる。
「わ・・・」
半助は、帳簿を見た途端、小さく声を上げた。
「これ、団蔵か・・・?」
「ええ・・・」
そのとおり。
一年は組の会計委員の団蔵は、その字の汚さでは天下一品だった。
いや、汚いなどというレベルではない。
以前夏休みの宿題の作文を見せてもらったことがあったが、その半分も文次郎には解読不能だったほどだ。
だが、数字に限ればなんとか読めないことはなかったので、帳簿の記入も任せてみたのだが。
やはり無謀だったか。
文次郎も苦笑するしかない。
「あいかわらずひどいもんだなあ・・・」
半助は溜息をついて文次郎の手から帳簿を取り上げ、唇に人差し指の腹をあてながら、口の中で何かをぶつぶつと呟きはじめた。
「えーと・・・・・二百一、三十九・・・んんと四百四・・・・・」
どうやら計算をしようとしてくれているらしい。
いくらやっても無駄なのに、と文次郎は思った。
計算なら今夜自分がもう幾度もやっている。
それでも、合わなかったのだ。
「八十四、百十五・・・」
――ん?
しかし、不意にその口から漏れ聞こえた数字に、文次郎は首を捻った。
「あの、いまの百十五ではなくて、百十三ですよね」
「え?」
半助は顔を上げぱちりと瞬き、それから再び帳簿に目を落とした。
「いや、百十“五”、だよ」
「え、でも」
自分は今夜、すべての数字を暗記してしまうぐらい繰り返しその帳簿を眺めたのだ。
間違うはずがない。
念のため半助の手元の帳簿をもう一度確認するが、やはりちゃんと“百十三”と書かれてある。
と、半助が突然、「ああ、そうか!」と言った。
それから、弾けるように笑う。
「団蔵はさ、焦って書くと、ときどき五が三みたいになるんだ。お前はこれを、三と読んでしまったんじゃないか?」
「・・・」
「ほら、よく見てみろ。五、だろ?」
指で示された先をよおく見てみれば――。
「う・・・・・」
・・・・・なるほど・・・・・。
縦線に見えなくもないかもしれない僅かな歪みが二か所ほど、たしかに文次郎にも見とめられた。
――どおりで計算が合わないはずだぜ・・・。
つまり今夜の自分はこんな、あまりにあまりな下らない理由のために、膨大な労力と時間を延々と費やしていたというわけである。
衝撃的なほど阿呆らしい事実にぐったりと項垂れてしまった文次郎を、半助は同情するように見た。
「私もはじめはこのクセがわからなくて、よく採点を間違えて苦労させられたんだ。私の指導が至らないばかりに・・・、すまなかったな、潮江」
半助は心底申し訳なさそうに謝罪した。
「いえ、そんなことは・・・」
文次郎は慌てて顔を上げた。
考えようによってはこの字のおかげで、彼とこんな風に話す時間が持てたのである。
そういう意味では、文次郎は団蔵に感謝してもいいとさえ思うのだった(帳簿の件はあくまで別だが)。
しかしそんな文次郎の心の内など知ろうはずもない半助は、「さて、と」と立ち上がる。
「これで数字も合ったことだし、お前ももう長屋に戻って寝なさい。明日も授業があるんだから」
もうすこし彼と話していたかったのだが・・・・・、仕方がない。
「はい。――先生はまだお仕事ですか」
半助の掌中の本に視線をやって文次郎が問うと、半助は苦笑いを浮かべ、しかしのんびりと答えた。
「んー。そうだな」
「大変ですね」
「まあ、これが私の仕事だから。じゃあ私はもう行くけど、お前も早く寝ろよ」
そう言って半助は、部屋から出ようと戸口の方へ足を踏み出したのだったが。
次の瞬間。
こけ。
「わ・・・っ」
がらがらがっしゃん!!!
彼は足元にあった何かに躓いて、盛大にすっ転んだ。
「ったぁ・・・・・」
蝋燭だけはなんとか死守されたものの、体は尻餅をついた状態で、次々と倒れてきた物体に半分ほど埋もれてしまっている。
それから蝋燭を掲げて自分を埋もれさせているモノの正体を確認した彼は、ぎょっと頬をひきつらせた。
「う、うわ・・・、びっくりした・・・・・」
それは―――大量の“生首フィギュア”であった。
今日の午後、仙蔵が作法委員会の下級生たちを引き連れてやってきて、倉庫を掃除したいからしばらく預かれと、文次郎の返事も聞かずに一方的に置いていったものである。
以前梅雨の時季に彼らの倉庫が雨漏りをしたため仕方なく預かってやったことがあったが、以来あいつはここをすっかり便利な倉庫と認識してしまったらしい。
「大丈夫ですか、先生?」
「だ、だいじょうぶ・・・」
そう言って起き上がろうとした半助の体を、文次郎は「あ、ちょっと」と押しとどめた。
「髪の毛、引っかかってますよ」
半助の長い後ろ髪の一部が、壁から突き出た小さな釘にひっかかってしまっていた。
「あ、本当だ。・・・ええっと・・・・・・ん・・・・あれ?・・・む、難しいな・・・」
半助はしばらくひとりで釘と格闘していたが、髪はどんどん絡まってゆき、状況はひどくなる一方で。
「・・・先生、俺がやります」
文次郎は見かねて、名乗りを上げた。
それから、半助のせいで余計にこんがらがってしまった髪を、すこしずつ丁寧に解いていく。
四年の斉藤タカ丸が、「手入れが悪い」と言ってぎゃーぎゃー騒いでいたあの髪である。
確かに多少ぱさついてはいるが、こうして見ると、文次郎にはそんなに悪いものにも思えなかった。
傷んでいるのか元からなのか、茶色がかった色は、この教師の柔らかな雰囲気によく合っている。
「・・・す、すまん・・・」
「いえ。でも土井先生、意外と不器用なんですね」
文次郎は思わず笑みを漏らした。
すると半助は頬を膨らませて、軽く睨んでくる。
「悪かったな。こういう細かい作業、苦手なんだよ」
「きり丸のアルバイトで、よく造花作りとか、手伝われているんじゃないんですか?」
「あれは得意なんじゃなくて、あいつに慣らされてしまっただけだ」
「ははっ」
極めて不本意そうに呟かれた言葉に文次郎が声を上げて笑うと、半助は不貞腐れたようにふいっとそっぽを向いた。
途端、「痛・・・っ」と小さく声を漏らす。
急に動いたために、髪が引っ張られてしまったのだ。
「すみません、少しだけ、じっとしていてもらえますか?もうすぐ取れますから」
「ん・・・わるい・・・」
半助は申し訳なさそうに、頭を動かさず、目だけで文次郎を見上げた。
至近から見つめてくる、大きな目。
知らず、文次郎の指の動きが止まる。
(でかい、目)
先程の痛みからか、その目にはいっぱいに涙がたまっている。
その下には、軽く結ばれただけの、柔らかそうな唇――。
この唇の感触を、自分は知っている。
・・・・・。
文次郎はまるで幻術にかかったように、ゆっくりと半助の頭を包み込むように掌をずらし、そっと撫でた。
半助の瞳が微かに揺れたような気がしたが、それはひどく遠いところのことのように感じられ。
それから―――。
「潮江?」
半助の自分の名を呼ぶ声に、文次郎ははっと我に返った。
目の前には、触れ合う直前の、唇。
っ。
文次郎は慌ててぱっと顔を離した。
(しまった、思わず――・・・)
気付かれた、ろうか。
「――すみません、なんだか頭がぼうっとして」
できるだけ動揺の色が出ないように努めて、文次郎は淡々と言った。
すると半助は、可笑しそうに笑った。
「ほらみろ。こんな時間まで起きてるからだぞ」
「そうですね」
(・・・よかった。不審に思われてはいないみたいだ)
文次郎が安堵の息を吐いたと同時に、ちょうど最後の数本がするりと文次郎の指をすり抜けた。
「とれました」
「ああ。ありがとう」
半助は微笑み、今度こそ戸口に立つ。
「じゃあ、本当にお前もさっさと寝るんだぞ。おやすみ」
「おやすみなさい」
ぱたん、と戸が閉じられる。
閉じられた戸を、文次郎はじっと見つめた。
ぐっと奥歯を噛みしめる。
――どうしよう。
やっぱり、好きだ。
泣きたいほどの気持ちで、そう思う。
今まで、それなりに恋もしてきたつもりだった。
結衣の傍にいるといつも暖かくて、安らかで、優しい気持ちになった。
だけど、こんな苦しい気持ちになったことなど、ない。
これが恋だというのなら、自分がしてきたものは何だったのだろう。
「――あなたが好きです、先生」
胸の中に閉じ込めておくことがあまりに苦しくて吐き出したその想いは、密やかに、夜のしじまに吸い込まれた。
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玉鬘:髪。どうにもならないこと、運命。