それは突然やってきた。
実際には数日前から小さな予兆はいくつもあったに違いない。
だが平太にとってそれは突然以外の何物にも思えなかった。
はじまりは朝。
いつもはぱっと目が覚めるのに、なぜか今朝は起きるのが億劫で仕方がなかった。
寝起きの良い平太がいつまでも布団の中でぐずぐずしていたので、同室の明秀に体の調子が悪いのかと心配された。
調子が悪いことは事実だが、体調の方はいたって健康である。
しかし、食堂で朝食を前にすると、どうにも食欲を感じない。食べられないことはないのだが、食べたいと思えないのである。おばちゃんの目が光るなか、こっそりと卵焼きを明秀の皿に移し、食べてもらった。
その後は散々だった。
午前中の実技の授業では、いつもは得意な火縄銃がことごとく的を外れ、挙句に操作法を誤り暴発させ、あわやの大惨事となるところだった。
昼になっても、やはり食欲はわかず、おばちゃんに頼んで昼食を半分の量にしてもらった。ふだん食欲旺盛な平太がそんなことを言ったのは初めてだったので大層心配されたが、決して体調が悪いわけではないので、理由を聞かれても困った。理由など、自分でもわからないのだ。
食後には、三年の七松小平太が例によって意味もなく「いけいけどんど〜ん!」と掘削中の塹壕に見事に嵌まり、咄嗟に足を庇ったため肩を強く打ち、保健室で手当されるはめになった。いつもの自分なら落ちる前に気付いたはずで、よもや六年が落ちるとは思わずびっくり固まってしまった小平太を大丈夫だからと宥めるのも一苦労だった。
午後の教科の授業にいたっては全く集中することができず、気付けば窓の外を茫と眺めている始末。そんな平太に始めは怒鳴っていた半助だったが、何か思うところがあったのか、途中からは注意もされなくなった。
そして今。
平太は中庭の木の下で、何をするでもなく放課後の時間を過ごしていた。隣では明秀が、やはり何を話すでもなく寛いでいる。いつもの光景である。
くの一教室で人気を二分する多紀平太と高久明秀が二人並んでいると、否応でも視線が集まった。だが、これもいつものことなので、二人は気にもしていない。
と、四年生のくの一が三人、彼らの方へ小走りに駆け寄って来た。
「多紀先輩、高久先輩!あの、これ、今日の授業で作ったんです。よかったら召し上がってくださいっ」
真ん中の少女が、緊張した様子で、和紙にのせた桃色の小さな和菓子を二つ差し出す。
「へぇ、うまそーだな」と明秀が、
「ありがとな」と平太が笑顔で言うと、
「いえっ。あの、それじゃあ、失礼しますっ」と真っ赤な顔で駆け戻っていった。
きゃー!と言い合っている声が聞こえてくる。
「ほら、うまそーだぜ?」
明秀が平太にひとつ手渡す。
「ん…」
平太は気だるげにそれを受取ると、しばらくじ……と眺めた後、ぱくっと口に入れた。
それを見て明秀は微笑み、自分も菓子を口に放り込みながら、平太の頭をごしごしと撫でてやる。
「よしよし。平太クンは優しいねー」
食欲のない平太は半分の昼食でさえ片付けるのに苦労し、明秀が手伝ってやったくらいである。とても菓子など食べる気分じゃないだろうに、遠くから先程の三人がそわそわと自分達の様子を窺っているのを平太は知っていたのだろう。
それでも和菓子の上品な甘さに少しだけ慰められ、平太はごろんと横になった。
五月の陽気に温められた芝生が頬にちくちくとあたる。
「アキぃー……」
「ん?」
「どうしちゃったんだろう、俺……。何やってもうまくいかねー…。てゆーか何もする気が起きねー……。くそ、なんなんだよ一体……」
少し苛ついた様子の平太に、今朝からずっと隣で親友の様子を見てきた明秀があっさりと言う。
「それ、スランプだな」
「…………スランプ?俺が?」
そんなこと考えてもみなかった、という顔で平太は明秀を見上げた。
「ああ、よくあることだ。放っておけば自然に元に戻るさ。しばらくのんびりしてろよ」
明秀は平太の頭を軽く叩いて立ち上がると、じゃ俺、美弥と約束あるから!と平太を置いてさっさとどこかへ行ってしまった。
美弥というのは彼らと同じ学年のくの一で、最近できた明秀の恋人である。特定の恋人がいても人気が衰えないところは、さすがというべきか。
(親友より彼女かよ…)
友情なんてそんなもんだよなーと本気でもなく呟いて、仰向けになったまま、平太は空を見上げた。
日に日に強まっていく日差しが眩しく、目を閉じる。
(スランプ、か……)
原因らしい原因がないのだから、自分ではどうしようもない。
だが本当に明秀が言ったように、何もせずに放っておけば戻るのか。
すっきりしない気分のまましばらくそうしていると、す、と太陽が遮られ影がかかった。
不思議に思ってそっと瞼を上げると、半助が腰を屈めて平太を覗き込んでいた。
「せんせ…?」
半助の後ろの太陽が眩しく、平太は目を細める。
「悪い、起こしちゃったか?」
「いえ。寝てなかったですし…。えっと、俺に用事ですか?」
さっきの授業の説教かな…と思いながら平太が聞くと、
「お前、今時間ある?」
と質問で返される。
「ええ、まあ…。今日は委員会もありませんから」
「じゃあ、ちょっと付き合ってくれ」
そう言って、半助はにっこりと笑った。
「……」
(…この人の笑顔って、なんか、太陽みたいだな…)
そんなことをぼんやりと思いながら、平太は立ち上がった。
半助が平太を連れて来たのは、学園の裏山だった。
「ここで、最初にお前に会ったんだよなー」
百八十度開けた景色を気持ちよさそうに見渡して、伸びをしながら半助が言う。
「ええ。迷子になっていた先生を、俺が助けたんです」
「いや、あれは迷子なんかじゃないぞ。お前に会わなくても俺は一人でここに来られたはずだ。もうほとんど出口だったんだからな」
むきになって言い返す半助が可笑しくて、平太は笑った。
と、なぜか半助が安心したように息をつく。
(…?)
平太が首を傾げると、半助は小さく微笑んで、再び正面の景色に目を向けた。
「こっから見ると、忍術学園ってちっさいよなー」
半助にならって平太も見下ろすと、さっきまで自分がいた中庭が見えた。
半助の言うとおり、ここから見ると、とても小さい。
その中でいろんな色の制服がちょこまかと動いている。
なんだか箱庭みたいで可愛いな、と思った。
平太の考えを読んだように、半助が言う。
「ここに来るとさ、人って本当に小さいんもんなんだなって思うよ。俺一人の力なんて、たかが知れてるって。だから国中の人を守ることなんてできやしない。――だけど、俺、決めたんだ。この景色だけは守ってみせようって。あそこにいる子どもたちの…」
半助が平太の方を向く。
前髪が風にふわ、と揺れる。
「お前達の笑顔は絶対に俺が守るんだって」
「……」
「でも、いつかお前はここを出ていくだろう…?そうしたら、俺はどうやったってお前を守ってやれなくなる。だから、平太。今はそのありがたーい権利を、存分に受けていればいいんだよ。失敗でも何でもどんどんやればいい。お前さ、わがままばっかり言うくせに、弱音とか全然吐かないだろ?それがお前の良いところでもあるけど…」
半助は平太の頬を両手で包む。
「お前は一人じゃないんだ。いつでも俺がいるってことは覚えておけよ。これでも、お前の“先生”なんだから、さ」
正面から平太の目をまっすぐに見て、にこやかに笑った。
「っ……」
平太は頬を真っ赤にして俯いた。
その様子に半助は目を細め、ぱっと手を放し、「じゃ、帰るか」とくるりと背を向けた。
「……先生っ」
平太は咄嗟に呼び止めた。
振り返った半助に、平太はまだ赤い顔のまま、しかしまっすぐに半助の目を見て言った。
「俺……今はこんなだけどさ…いつか、いつか絶対に強くなってみせる。そうしたら、今度は俺が守ってやるよ!」
何を、とは言わなかったが、半助には通じたようだ。
半助は一瞬目を見開き、そして嬉しそうに頷いた。
翌日には、平太の調子はすっかりいつもどおりに戻っていた。
「ずいぶん短いスランプだったな」
昼休み、「お天気がいいから外で食べてきたら?」というおばちゃんの言葉に従い中庭で昼食をとりながら、明秀がからかうように言う。
「うるせー。放っとけ」
平太は庭の反対側に目をやった。
明秀もそちらを見ると、そこには。
「半助ちゃん、あいかわらずだなー」
やはり半助が一年生達と一緒に昼食をとっていた。六年の担任にもかかわらず、半助は一年によく懐かれており、時々こうして一緒に過ごしている姿を見かけた。
例によって、嫌いな練り物を一年に食わせようとしているようである。それに対して一年の一人が何かを言い、どわっと笑いが弾けた。
半助の笑顔を遠くから見ながら、平太は思う。
(だって、あのとき思ったんだ。俺も、この太陽みたいな笑顔を守りたいって――)