あの夜。
絡まってしまった髪を解いてもらいながら。
彼の掌が頭を撫でるように滑ったときは、気のせいだろうと思った。
だが、そのあと。
触れ合う直前だった、唇。
もしあのとき自分が名を呼んでいなかったら―――。
はぁぁぁぁぁぁぁ。
「――なにか悩み?」
かけられた声に顔を上げると、平太が箸をとめて、こちらを見ていた。
「さっきから、ため息ばかりついて」
「……」
そうだった。
ここは平太の家で、週末に彼の家を訪れた半助は、今一緒に夕餉を食べているところなのだった。
どうやら自分は雑炊の椀を手にしたまま、物思いに耽ってしまっていたらしい。
あれから、二週間。
あのとき半助は咄嗟に気付かぬふりをし、幸い少年はそれを信じてくれたようだった。以来彼と顔を合わすことはあっても、その様子に特段変わったところはなく。
だが一度気付いてしまうと、はっきりとわかる。
決して表立ってはいないけれど、あの少年の、自分に向けられた特別な感情に。
しかし――。
どうして、俺なんだ?
半助にはそれが不思議でならなかった。
くの一教室には同じ年頃の可愛い女の子達が沢山いるというのに。
そうだ、たしか彼はくの一の生徒と付き合っているのではなかったか?
それがどうして今、十も上の、しかも男の自分なのだ。
――こいつに相談してみようか。
半助は、ちろりと目の前の恋人を見た。
こいつだって元は俺の生徒だったんだし、もしかしたら何か良いアドバイスをくれるかもしれない。…
いや、だめだ。
半助はぶんぶんと首を振る。
たとえ相手が平太でも、あの少年の気持ちを思うと、やはり他人に相談をしてはいけない気がした。
「悩みがあるなら、相談に乗りますよ」
「いや、大したことじゃないんだ」
半助は平太の視線を笑って流し、皿の上の大根の糠漬けをひとつ箸でつまみ、ぽりぽりと噛んだ。
皿は、半助がは組の課外授業で、生徒達と一緒に焼いたものである。
夏休みに半助の家でこれを見た平太が気に入り、欲しいと言うのでやったのだったが、結局自分もこうして使っているのだから単に置き場所が変わっただけともいえた。
ちなみに漬物は、平太が糠から漬けたものである。
ときどき妙な食材や調味料を混ぜられてとんでもない味に仕上がることもあったが、今回は彼が多忙だったせいか、シンプルな味付けになっていた。
「うまいな、これ」
「そう?最近忙しかったから、あんまり手間をかけられなかったんだけど」
すこしだけ不満そうに、それでも褒められて嬉しそうに、平太もそれをつまむ。
ぽりぽりと二人同じ音をたてながら、半助は体がほんわりと温もるのを感じた。
こんな仕事をしていれば、明日はどうなるかなんてわかりはしない。
それでも、少なくともいま、二人とも健康で。
時々けんかをしたりしながらも、おなじ屋根の下で、おなじ漬物をつまんで。
外は木枯らしが舞っているけれど、家の中はとても暖かい。
「もうすぐ、今年も終わるな」
あかあかと燃える囲炉裏の火を見つめ半助が呟くと、平太は箸をとめ、感慨深げに半助の顔を見た。
「ええ。…半助が俺に全部をくれてから、もう三年か」
!!
しみじみと呟かれた言葉に、半助は危うくまだ中身の残っている茶碗を投げつけそうになった。
「…っし、しみじみ言うなよ、そんなこと!!!」
恥ずかしい奴だな…っ。
「だって仕方がないでしょう?あのとき、本当に嬉しかったんだから。それに、三年たってもこうして半助と一緒にいられて、俺、本当に幸せだよ」
「……」
まっすぐな目で微笑まれ。
言い返す言葉をなくしてしまった半助は、頬を赤くして、無言で再び飯を口に運んだ。
平太はそんな半助を優しく見つめ、自分も碗を手にする。
何を話すでもない。
心地よい、沈黙。
半助は再び、あの少年を思った。
先日六年の職員室を訪れたとき、少年の担任教師が「あいつはこのところ注意散漫で困る」と同僚教師に嘆いていたのを、半助は耳にしていた。
どうしたらいいのだろう。
もうすぐ、今年も終わる。
これからが六年生にとって、就職活動も大詰めとなる最も大事な時期なのだ。
そんな時に、あの優秀な少年に、自分のことなどで気持ちを乱してほしくはない。
ましてや自分は彼の気持ちに応えることができないのだから、なおさらだ。
「そういえば」
半助が物思いに沈んでいる間にひと足先に食事を終えた平太が、皿を片付けながら思い出したように言った。
「昨日、学園長先生から文が届いたんですよ」
「学園長から?珍しいな」
「何も聞いてませんか?」
「いや」
学園長には今朝も会っているが、特に変わったことは聞いていなかった。
「今、六年生が就職活動中でしょう?それで、彼らにプロの仕事について話をしてほしいそうです。俺だけじゃなくて、何人か呼ばれてるみたいですけど」
「へぇ。そういえばこの前ヘムヘムが職員室に卒業生名簿を借りに来たけど、そういうわけか…・・」
………ん?
と、いうことは――。
「お前、来るのか?忍術学園に」
「そのつもりですけど。行ったらまずい?」
平太がきょとんと首を傾げる。
「いや、まずくはないが…。卒業以来だなと思って」
「一度近くまでは行きましたけどね。たしかに中に入るのは、卒業以来ということになるかな」
特に感慨を含むでもなく淡々と言った平太を横目に、半助はぽりぽりと頬を掻いた。
平太が忍術学園に来る――。
嬉しいような。
気恥ずかしいような。
あの少年のことは何も解決してはいないけれど。
突然のそのニュースに少しだけ気持ちが軽くなっている自分を感じながら、半助は漬物の最後の一切れをぱくりと口に入れた。