「先輩たち、よかったら、これからうちに来ません?」

 恒例の子守りのアルバイトを終えたその夕方、きり丸はもらったばかりのお駄賃を大事そうに懐に抱え、ほくほくと満面の笑みでそう言った。

 「…うち?」

 文次郎は言われた単語の意味が咄嗟に飲み込めず、首を捻った。

 (きり丸の、家――?)

 「ええ。ま、正確には土井先生の家っすけどね。今日先生、町内会の大掃除で家に帰ってるんですよ。それでアルバイトの話をしたら、じゃあ先輩達に夕飯をご馳走したいから、帰りに来てもらうようにって」

 “土井先生の家”

 その単語に、文次郎の胸は正直に高鳴る。

 「あー、せっかくだけど、私は他に約束があるからこれで失礼させてもらうよ」

 「えー、七松先輩、帰っちゃうんですかぁー?」

 「わるいなあ。けど、どうしても抜けられない用事なんだ」

 小平太はすまなそうに頭を掻いた。

 「中在家先輩と潮江先輩は?来ますよね??」

 「もそもそ…(伺う)」

 「俺も特に用事はないし、お邪魔するよ」

 たとえどんな用事があってもこっちに行くに決まっているが。

 「先生の料理って、結構イケるんすよ。楽しみにしていてください!」

 そう言ってきり丸はまるで自分のことのように威張り、にこにこと笑った。

 (土井先生の手料理か。…うわ……すげぇ嬉しいかも)

 気を抜けば途端に緩んでしまいそうになる口元を引き締めながら、文次郎は半助の家への道程を、踊るような気持ちで辿った。





 ほどなく三人は目的地に到着した。
 それはよくある造りの一般的な長屋で、戸口脇の格子窓からは美味しそうな匂いが漂っている。
 きり丸は、ガラッと勢いよく戸を開けた。

 「土井先生!ただいまー」

 「おじゃまします」

 「もそもそ…(おじゃまします)」

 きり丸に続いて文次郎と長次が中に入ると、彼はちょうど土間で料理をしていたところらしく、白い割烹着を着、お玉を片手に「おー、おつかれさま!」と笑顔で文次郎達を迎えてくれた。

 (ああ、任務を終えて家に帰ったときにこんな風に先生が迎えてくれたら、疲れなんか一瞬で吹っ飛ぶだろうな)

 恋する男が一度はするであろうその妄想を、文次郎もまた、男の夢だよなあ、としみじみと思った。
 もっとも半助だって紛れもない男なのだが、自分の気持ちを認めてしまった今、そんな細かいことは文次郎は気にしない。

 「七松先輩は他に用事があるそうで、土井先生に宜しくって言っていました!」

 「そうか。まぁ前もって言っておかなかったから、しょうがないな」

 それから半助は、文次郎と長次に向き直り、にっこりと微笑んだ。

 「中在家、潮江、よく来てくれたな。もうすぐ出来るから、適当に上がって寛いでいてくれ。きり丸、先輩達に足を洗う盥と、それからお茶も入れて」

 「はーい」




 その夜半助が作ってくれた食事は、シンプルだがとても美味しいもので(もっとも半助の作ったものなら文次郎には何でもご馳走となるのだが)。
 そして今日のアルバイトで起きたハプニングやら今までの体験やらを談笑しているうちに、夢のような時間はあっという間に過ぎてゆき、秋の短い陽はとっぷりと暮れてしまった。
 明日は授業なので、これから全員学園まで帰らねばならない。

 「もうこんな時間か」

 すっかり暗くなった窓の外を見て、半助が呟く。

 「ちょっと待っててくれ。今日掃除の後に町内会の会長さんから林檎をもらったんだ。外に冷やしてあるから、切って食おう。食い終わったら、帰るぞ」

 「は〜い」
 「はい」
 「もそもそ…(はい)」

 三人三様の返事の仕方に半助は可笑しそうに微笑み、それから入口の反対側の戸から外へと出て行った。

 「あ!そうそう、中在家先輩!」

 半助の姿が見えなくなるや否や、きり丸は突然何かを思い出したようにぽんっと手を打ち、ごそごそと部屋の隅の物入れを探り始めた。
 そして両手に数冊の綴じ本を抱えてきて、長次に差し出す。

 「この前図書室を一斉整理したとき、どうっしても出てこなかった本が数冊あったでしょう?学園中探しまわっても、どこにもなかったじゃないすか。あれ、なんとこの家にあったんですよ!考えてみればあのとき、先生だけ出張中でいなかったんですよねぇ」

 「もそもそ…(土井先生だったのか)」

 「ええ。前の休みのときに借りたまま、すっかり忘れてたみたいです。たぶんこれで全部だと思いますけど、先輩も確認してもらえます?僕はちょっと先生の様子を見てくるんで」

 そう言って、きり丸はバタバタと慌ただしく外へと出てゆき。
 長次は隣で黙々ときり丸の置いていった本を調べ始めた。

 「………」

 ひとりだけ放られた形となった文次郎は、すっかり手持無沙汰になってしまった。
 しばらくきょろきょろと家の中を見回していたが、広くはない家のこと、すぐにやることがなくなる。
 俺も外に行ってみるかな、と文次郎は長次を残し、ひとり土間へと下りた。

 半助ときり丸が出て行った木戸を開けてみると、そこは近所の長屋の共通の中庭のようになっており、少し離れた井戸端にふたりの姿が見えた。
 しかしそちらへと歩きかけた文次郎の足は、ふと耳に届いたきり丸の言葉にぴたりと止まった。

 「けど、よかったんすかー、先生」

 「何が?」

 半助が井戸水で軽く林檎を洗いながら、聞き返す。
 きり丸は洗い終わったそれを受け取り、手の中で意味もなくコロコロと転がしながら話を続けた。

 「今日、本当は先輩と会う約束だったんでしょ?先週まで中間試験だったし、会うの、久しぶりだったんじゃないんですか?」

 (…“先輩”って、誰のことだろう…)

 文次郎は思わず、二人から死角になる位置に身を隠した。

 「そんなことはお前は気にしなくていいんだよ。仕方ないだろ?町内会の掃除のこと、すっかり忘れてた私が悪いんだから」

 「それなら、夜だけでも会えばよかったのに」

 「だ・か・ら、お前はそういうことは気にしなくていいんだって。実は、前から潮江達にはアルバイトの礼をしたいと思っていたんだ。でも学園で私から改めてするのもなんだか妙だし、だから今日はちょうどいい機会でよかったよ」

 そうきっぱりと言って、彼は洗った林檎をまた一つ、きり丸に渡した。

 「……」

 きり丸は受け取った林檎をじっと無言で見つめて。
 ぼそりと、小さな声で呟いた。

 「……先生が、僕のアルバイトの礼をする必要なんて……ないじゃないすか……」

 半助はちらりと顔を上げ、手の中の果実に視線を落としたままの少年を、何かを考えるように見た。
 そして、片手でその小さな頭をわしゃわしゃと乱暴に掻きまわした。

 「まったくお前はぁ〜〜〜、まだそういうことを言うのか?甘えているのはわかってるけど、そんな風に言われると私だって傷つくんだぞ、きり丸」

 「…あ、甘えてなんか…っ」

 「甘えてるよ。そんなことないって、私にそう言ってほしいんだろう?お前は」

 彼はきり丸の頭に手を載せたまま、少年と同じ高さに目線を合わせ、じっと優しくその目を覗き込んだ。

 「――言ってほしかったら、何百回でも言うけどな。…でも、もうすこし私を信じてくれてもいいんじゃないか?」

 「っ…」

 きり丸の肩が、微かに震えた。
 それから彼は焦ったように足元へと視線を落とし、小さくもごもごと口を動かした。

 「……し、しんじて……ます……ょ…・・」

 「んー?」

 「だ、だから…!俺は先生を信じてるって…!!」

 と。

 半助の顔に、ニッコリと満面の笑顔が浮かぶ。

 「うん。ちゃーんとわかってるよ」

 「…!!」

 少年の大きな目が、零れそうなほど真ん丸くなる。
 それから彼は、林檎のような真っ赤な顔で怒鳴った。

 「じゃ…、じゃあっ、こんなこっ恥ずかしいこと、言う必要なかったじゃないすか…!?」

 「お前が水くさいことを言うからさ。お仕置きだよ」

 「ひでー!先生の意地悪ー!そんなんで、先輩に嫌われても知らないっすよ!」

 (――また、“先輩”だ…)

 再び会話に現れたその言葉に、文次郎の胸が、ざわつく。

 「な…、何言ってんだよ…っ。そんなわけ…ないだろ……・・」

 途端に歯切れの悪くなった半助に、きり丸はニヤリと笑った。

 「へぇ〜、そんなわけないんだ〜?信じてるんっすねー、先輩のコト♪」

 「っ……し、仕返しか、きり丸……」

 「へへー。顔、真っ赤っすよ、先生」

 「う、うるさい…っ。ほら、戻るぞ!林檎、落とすなよ!」

 「はいはい。…って、先生も半分持ってくださいよ」

 「ふんっ」

 「もー。大人げないんだからぁ」

 文次郎は二人に見つかる前に、気配を消したままそっと部屋へ戻った。
 一切音を立てずに元いた場所に戻った文次郎を長次は怪訝そうに見たが、何も聞いてはこない。
 ここにいるのが小平太じゃなくてよかった…と、文次郎は心底思った。


 それから、半助が切ってくれた林檎を四人で食べたのだったが、文次郎は林檎の味などまったくわからなかった。

 “先輩”って、誰のことだろう。

 そればかりが気になって仕方がなかった。
 先程のあの会話からすると、半助とごく親しい関係、いや、それ以上の関係としか、思えなかった。

 仙蔵に言われたとおり半助は文次郎の手に届くとは思えない遠い人で、叶うはずのない想いなのは百も承知で、こうして傍にいられるだけで十分だと、そう思っていたはずなのに――。


 どうして、こんなに胸が苦しいのだろう。







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