(梅雨、かな)

 平太は自室で苦無を磨きながら、しとしとと降る雨を眺めた。

 六月も半ばを過ぎ、数日前から雨の日が続いている。
 せっかくの休日を室内で過さざるをえなくなり級友達は皆不満そうだったが、平太は雨が嫌いではなかった。
 雨の匂いに包まれた長屋は常よりも静かで、平太の心を落ち着かせる。

 そこに、同室の明秀が戻ってきた。
 連日の雨で火薬庫の雨漏りが発見されたため、火薬委員長の明秀はその修繕と被害状況の確認に行っていたのだ。

 「おかえり。どうだった様子は?」

 「ああ。一箱だけ使い物にならなくなっちまったが、火薬の被害はそれだけだ。発見が早かったおかげだな」

 雨に濡れた髪を拭きながら、明秀が言う。

 「そっか、よかったな」

 「まあな。そんなことより、大変だったんだぜ、今」

 平太は苦無を磨く手を休めて、明秀の方を向いた。

 「何かあったのか?」

 「確認の報告に職員室へ行く途中で、半助ちゃんが血まみれの雷蔵を担いで医務室へ駆け込むのを見てさ。追いかけてきた兵助と八左ヱ門に何があったのか尋ねたんだ。あいつらが言うには、今朝方学園長先生に頼まれて三人で銀楽寺まで使いに出たんだそうだ。だがその直後に、マツタケ城とシメジ城の開戦の知らせが学園長先生の元へ届いたらしい」

 「銀楽寺へ行く途中にはマツタケ城の領地があるな…」

 平太は眉をひそめる。

 「ああ。それで急遽半助ちゃんに後を追わせたんだが、半助ちゃんが駆け付けたときには既に三人とも合戦場のど真ん中で身動きできない状態で、この雨と硝煙で誰も子供がいることなんか気付かない。そこに砲弾が落ちてきて、半助ちゃんが間一髪で三人を突き飛ばして助かったが、雷蔵に破片が当たったんだ。気になったから俺も治療が終わるまで付き添ったんだが、見た目ほど酷い傷じゃなかったようだ。新野先生が、切れたのが頭だったから血が多く出たんだろうって」

 明秀が自分の頭を指差す。

 「それでも相当痛むだろうに、雷蔵の奴、治療中声も上げずじっと我慢して。えらかったよ。治療が終わった後もちゃんと長屋まで歩いて行ったしな。…それより、心配なのは半助ちゃんの方だ。あいつらが出て行った後、一点見つめたまま何か考え込んでて。俺が報告している間も、どこか上の空でさ」

 「……」

 「もちろん半助ちゃんには何の落ち度もないが、あの人のことだ。責任を感じてんのかもな……」

 「…先生は、今、医務室?」

 「ああ、俺が出たときはまだいたぜ。なんだ、行くのか?」

 「んー、ちょっと顔だけ見てくる」

 平太は苦無を片付けて、部屋を出た。



 しかし、半助は医務室にはいなかった。明秀のすぐ後に出たという。
 職員室も覗いたが、姿がない。

 (どこにいるんだ?)

 「あ、火薬庫か…?」

 半助は火薬委員の顧問である。明秀の報告を聞いて、倉庫の様子を確認に行ったのかもしれない。



 平太が倉庫に着くと、扉が僅かに開いていた。

 (やっぱりここか)

 ぎぃ、と音を立てる重い扉を開け、中に入る。
 内部は薄暗かった。
 明り取りの窓から差し込む光も、今日のような天気では心許ない。

 「土井先生?いますか?」

 平太は入口から声をかけた。

 「平太…?」

 奥から半助の声が返る。

 声の方へ行くと、半助は背ほどの高さまで積まれた火薬箱の間にいた。
 真上の天井に新しい板が貼られているところを見ると、ここが明秀の言っていた雨漏りの現場なのだろう。

 「どうした?何か用事か?」

 半助は平太の方を見ずに、傍らの火薬箱の中を点検しながら言う。
 医務室から直接ここへ来たのか、服にはまだ泥と血がこびりついていた。

 「明秀から雷蔵のことを聞いて……。大丈夫ですか?」

 「ああ、怪我は大したことはないそうだ。よかったよ」

 半助は横顔を向けたままだ。
 平太は、半助のすぐ傍までゆっくりと歩み寄った。

 「いえ、雷蔵じゃなくて、先生のことです。先生は、大丈夫ですか?」

 「…俺…?」

 半助が平太の方を見ないので、平太は半助の肩にそっと手をかけて、正面から向かい合った。
 背は僅かばかり半助が高いが、殆ど変わらない。
 半助は、視線を上げない。
 だが―――。

 「先生」

 「俺……」

 「ええ」

 「………守るって、決めたんだ………」

 「……」

 「……あいつらは…俺が守ってやるって………」

 「……」

 「……なの、に……っ…できなく、て…っ」

 半助の呼吸が上がる。
 咄嗟に、平太は腕を伸ばし、半助の体を抱き寄せた。
 殆ど無意識の行動だった。

 まわした腕に力をこめても、半助は動かない。
 上がった呼吸に合わせて、肩が震えている。
 平太は半助の頭を抱き、肩口に半助の顔を押しつけた。

 「……っ」

 じわりと肩布が熱く湿る。
 半助はそのまま、声を殺して泣いた。



 倉庫の中は、埃と、火薬と、血と、そして雨の匂いがしていた。

 半助は、ショックだった。
 教師になるまでは、任務のときは一人で、あるいは自分と同じプロの仲間と行動を共にしていた。
 絶対的に加護すべき存在を持ち、それを目の前で傷つけてしまったのは、初めてだったのだ。



 「先生…、前に言ったよな。人は小さいものだって。俺達の力なんか知れてるって。だから先生は、せめてこの学園の生徒達だけでも守ろうって、決めたんだよな?」

 「……」

 顔を埋めたまま、半助がこく、と小さく頷く。

 「先生は守ったじゃないか。俺達は万能じゃない。こんな小さな学園でも、すべての生徒を傷つけないなんて、無理だ。でも、先生はちゃんとあいつらを守ったろ?先生が助けなかったら、今頃あいつらの命はなかった。その場にいたのが俺だったら、助けられたかどうかわからない。……俺だってそうだ。俺は先生に救われた。先生、言ってくれたよな、俺は一人じゃないって」

 「……」

 平太は半助の頭をきつく抱いた。
 肩にあたる吐息が熱い。

 「でも、忘れるなよ。先生だって、一人じゃないんだぜ」

 そして、半助の頭をゆっくりと離し、顔を見た。
 涙で濡れた目が平太を見返す。

 「俺が、いるよ」

 「っ」

 半助の肩が小さく震える。

 「俺がいる。だから、こんな所で一人で泣くなよ」

 優しく言われて、半助の目からひと滴涙が零れた。
 平太は半助の頭を撫でると、眦に口付け、そっと涙を吸った。
 半助は黙ったままだ。



 しばらくゆるく背を撫でているうちに、半助の呼吸も落ち着いてきた。

 「もう、大丈夫…?」

 耳元で囁くと、半助が少し照れたようにこくりと頷いた。
 平太は微笑んで、それにしても、と呟いた。

 「なんか、こんな場所でこうしていると、襲いたくなるな…」

 「!?」

 ぎょっと目を見開いて体を離した半助に、平太は笑う。

 「元気、でた?」 

 「っ……からかうな!」

 くすくす笑っていると、半助がふと真面目な顔になり、言った。

 「平太………ありがとな………」

 半助の頬に残る涙の跡を愛しげに見ながら、平太は返す。

 「どういたしまして。それより先生、さっき俺が言ったこと、忘れないでくださいよ?」

 言って涙の跡を親指で拭うと、半助は少し顔を赤くして、頷いた。










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