今日は、忍術学園の学期末試験の最終日。
そして、一学期の最終日である。
「はぁぁー……………」
梅雨明けとともに襲った猛暑は、日に日にひどくなるばかり。
蒸し風呂状態の職員室で、今日も今日とて胃薬片手に溜息をつくのは、六年は組教科担当、土井半助。
右手には朱の筆。
机の上に積まれているのは学期末試験の答案用紙。
そんな半助に実技担当の山田伝蔵が声をかけた。
「いかがですか、は組の成績は?」
「……聞かないでください……」
「ははは。しかし、明日からやっと先生の胃も夏休みですな」
「ええ、まったくです」
半助は苦笑して、次の用紙をめくった。
それは、多紀平太の答案だった。
(……)
ふと半助の脳裡に、数週間前の雨の日の出来事が浮かぶ。
あの日、自分は平太の胸で泣いてしまった。
そして平太は、泣く半助の眦に口付けて――。
(な、何を思い出してんだっっっ)
半助はぶんぶんと音がしそうなほど大きく頭を振る。
「土井先生、何をやっとるんですか、あんた…」
伝蔵が呆れたように言う。
「い、いえっ、なにもっ」
「顔が赤いですよ。風邪ですか?」
「え!?いいえ、そんなことはありませんよ!すっごく健康です!!」
「ならいいが…」
明らかに挙動不審な半助を、伝蔵が気味悪そうに見る。
あれから半助は、何かにつけ、繰り返しあの日のことを思い出してしまっていた。
あいつはタラシだから男にも平気でああいうことをする。
(困った奴……)
半助はまた、溜息をついた。
あまりの室内の暑さに辟易し、半助は採点を終えると同時に逃げ出すように屋外へ飛び出した。
暑さに弱いのである。
伝蔵はそんな半助に「子供じゃないんだから」と呆れていたが、やはり尋常でない暑さに耐えかねたのか、すぐに半助の後を追ってきた。
庭では、忍たま達が暑さをものともせず、サッカーをしたり、バレーボールをしたり、談笑したりしていた。
暑さよりも、試験を終えた開放感の方が大きいのだろう。
「みんな元気ですなあ」
伝蔵が教え子達をにこにこと眺めながら言う。
そこへ。
「土井せんせー!山田せんせー!」
多紀平太、高久明秀、浅木美弥の三人が声をかけてきた。
手には大きな荷物を持っている。
「こんにちは、先生」
美弥が二人の教師にぺこりと頭を下げる。
平太と明秀とは午前の試験時に会っているが、くの一教室の美弥と顔を合わせるのは今日は初めてである。
「「はい、こんにちは」」
半助と伝蔵は、笑顔で挨拶を返した。
浅木美弥は、黒い艶やかな髪と大きな黒い眼を持った、どちらかといえば控えめなタイプの美少女だった。
明秀が美弥と付き合い始めたとき、明秀に恋い焦がれていたかなりの数のくの一が涙を流したというが、やはりそれと同数の忍たま達が美弥を想い涙を飲んだといわれている。
「お前達、荷物はもうまとめたのか?」
生徒達の多くは今日あるいは明朝に学園を発ち、帰郷する。
そしてひと月半の夏休みをそれぞれの郷里で過ごすのである。
「はい。俺達はこれから発ちます。ちょうど御挨拶に伺おうと思っていたところです」
明秀が荷物を示して答えた。
「先生達はいつ発たれるんですか?」
「俺は明日だ。山田先生は…」
と、そこへ―――
「父上ーーーー!!」
正門の方角からどどどどっと砂煙をあげて少年が駆けてきた。忍術学園の生徒ではない。
「げ、利吉!!!?」
ぎくっと固まる伝蔵。
「もーう逃げられませんよ!今日こそは帰っていただきます!!」
「お前、わざわざ私を迎えに来たのか!?」
「もちろんです。さ!一緒に帰りましょう!!」
伝蔵の袖をぐいぐいと引っ張るこの少年。
「利吉、くん…?」
半助は突然始まった目の前の騒動を呆然と眺めた。
(この子か、噂の山田先生の息子さんは。なるほどな、くの一教室が騒ぐわけだ)
利吉は、平太や明秀とはまた違ったタイプの少年だった。
育ちの良さそうなきりっとした美貌に、見え隠れする生真面目さが、半助の微笑みを誘う。
親子だけあって目鼻立ちは伝蔵と似通っているにもかかわらず、どこからどう見ても美少年なのだから、摩訶不思議である。
奇跡的遺伝だな、とまじまじと観察している半助に、利吉がはた、と気が付いた。
「…土井先生、でいらっしゃいますね?ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私、山田伝蔵の息子の利吉と申します。この馬鹿父がいつもお世話になっております」
きりっと頭を下げる利吉。
出来のいい息子さんだな、と感心しながら半助も答える。
「こちらこそ、お父上にはいつもお世話になっていて」
その声と重なるように、すかさず伝蔵が怒鳴った。
「馬鹿父とはなんだっ、馬鹿父とは!この、馬鹿息子!!!」
「この半年間、一日も家にお帰りにならないで、馬鹿以外の何物ですか!!!」
伝蔵の忍服をしっかと握りしめ、利吉はくるっと半助達の方へ向き直った。
「それでは、この馬鹿父を連れて帰らせていただきます。土井先生、今後も父ともども、よろしくお願い致します。平太君、明秀君、美弥ちゃん、またな!」
「おう、気をつけてな!今度はゆっくり来いよ。また遊ぼうぜー!」
平太と明秀が手を振る。
ずるずると情けなく息子に引きずられていく伝蔵を見送りながら、半助はハハ…と苦笑した。
「おもしろい親子だなー。あの二人、いつもああなのか?」
「ええ、いっつも」
可笑しそうに平太が答える。
家族のいない半助は、ちょっと羨ましい気がした。
と。
「おい、美弥。なに赤い顔でぼーっとしてんだよ」
明秀の不機嫌な声に、美弥がはっと我に返り、焦ったように笑う。
「え?あ。な、なんでもないよ?あはは」
「どうせ利吉君にみとれてたんだろ」
「そ、そんなことないって!明秀君の気のせい!」
「どーだか?平太、俺達、もう出発するぜ。土井先生、お先に失礼します」
「ああ。気をつけて帰れよ。また九月にな!」
半助が答えると、美弥もぺこっと頭を下げ、明秀と一緒に正門を出ていった。
「なんだかんだ言って仲いいんだよなー。やけるぜ」
二人が去った方を眺めながら、平太が笑って言う。
「お前は一緒に行かなくてよかったのか?」
「ええ。俺はどうせ逆方向ですから」
平太が半助の方を向き直る。
「そっか」
(………)
二人きりになった途端、先刻の回想が再び頭に浮かび、半助の鼓動が僅かに速まった。
そんな半助の内心を知ってか知らずか、平太がのんびりと言う。
「今年の夏は、暑くなりそうですね」
「ああ、そうだな…」
そこにサッカーボールが転がってきた。
一年生が一人、追いかけて走ってくる。
平太は軽く蹴って返してやると、傍らの荷物を手に取った。
「じゃ、俺もそろそろ行きます」
「そうか。気をつけてな」
半助は笑顔で言った。
「ええ、先生も」
一瞬、平太が何か言いたそうな表情をしたように見えた。
だが、にっこり笑っただけで、何も言わなかった。
「じゃあ、さよなら!」
「ああ、また新学期にな」
去っていく平太の後姿を、半助は眩しく見送った。
この年頃の少年の成長は早い。
九月にはきっと、一回り大人になった彼らに出会うことができるだろう。