何の前触れもなく、す、と首筋を撫でた濡れた感触に。
 金縛りにあったように指一本動かせぬまま、永遠にも思われた数秒の後。

 「潮江文次郎、失格――」

 鼓膜を震わした、低く静かな声。

 その瞬間。
 ぞくりと腹の底から湧き上がった感覚に、文次郎は喘ぎに似た吐息を零した。







 「よーし、全員揃ったな。今回の評価は、後日各担任より言い渡す。それから服はすぐに風呂場で洗っておくように。以上だ。解散!」

 「「「ありがとうございました!」」」

 学年主任による号令で、夜明けから丸一日かけて行われた六学年全クラス合同模擬演習は終了した。
 がやがやと賑やかに風呂場へと向かう若草色の忍服には、どの服にも一か所、朱色の墨がついている。見る者が見れば、それらがいわゆる“急所”にあたる部分であることはすぐにわかるだろう。

 「もんじ、おつかれー」

 背後からかかった明るい声に文次郎が振り返ると、ろ組の七松小平太が夕陽を背にニコニコと駆け寄ってくるところだった。
 その服にもやはり、左胸にどでかい朱印がついている。

 「腹へったあ〜〜〜。これ洗うの、夕飯食った後じゃダメかなあ?」

 小平太は、左胸の布を指でつまんで小首を傾げた。

 「さあな」

 「この色、ちゃんと落ちると思うかー?」

 「知らん」

 「……どしたの、文次。ずいぶん不機嫌じゃん」

 そう言ってまじまじと顔を覗き込んできた友人に、文次郎は僅かに眉を顰めた。

 「……」

 「いちばん最後まで残ったの文次なのに、一体何が気に入らないのさ?」

 「…別に不機嫌なわけじゃない。俺は風呂場に用はないから、あとで食堂でな」

 文次郎はそれだけ言うと、ひとり仲間たちの群れから外れ、六年長屋の方へと足を向けた。




 演習は、夜明けから学園の裏山および裏々山一帯を使って行われた。
 付近は前日から立入禁止とされ、一般人はもちろん下級生でさえ近寄ることが許されぬ徹底ぶりであったが、それほど学園がこの演習に力を入れたのには訳がある。
 今回の演習には、西国の名だたる城のリクルーター達が悉く見学に訪れていたためだ。
 つまり来年に就職を控えた六年生にとってこの演習は、己の実力を彼らにアピールする極めて重要な機会であり、実際過去の例をみても、この演習で好成績を上げた者には必ず多くのスカウトが集中し、結果、良い就職先が決まっているのだった。
 形式は、完全な個人戦。
 今回はチームワークより各人の能力に重点が置かれたためである。
 ルールはいたってシンプルで、体の急所に一ヶ所でも朱の墨をつけられた時点で失格・退場。それだけだ。武器にも術にも制限はない。
 開始から数刻は生徒同士で闘い、脱落者が増え残り人数が絞られてきた頃、今度は教師が参戦する。六学年の教師は自分の受け持ちの生徒の評価にまわっているため、ここで加わるのは他学年の教師達である。
 そして、いかに教師からの攻撃を躱すことができるかが、後半戦の焦点とされた。




 「……」

 人けのない裏庭の井戸で、水を引き上げ、手拭いを浸す。
 瞬く間に水分を吸い色を濃くした紺藍の布が、透明な水の中でゆらゆらと揺れる様を文次郎はじっと見つめた。
 他の生徒達と異なり、文次郎の服には何処にも墨がついていなかった。
 代わりに、首筋から項にかけて一筋、朱色の線がまっすぐに引かれている。

 あのとき。
 我に返った文次郎がうしろを振り返ると、そこに既に人影はなく、ただ梢が微かに揺れているだけで。
 演習終了の笛が響き渡ったのは、それからまもなくだった。
 自分が一番最後だったと知ったのは、集合場所に行ってからだ。
 小平太の言うとおり、最後まで残った自分は確かにリクルーターからの評価は高いだろう。
 だが、今文次郎の思考を占めているのは、そんなこととは全く別の事柄だった。




 ――江。

 「……」

 「潮江?」

 「え……?」

 物思いに耽っていたところに突然ぽんと肩を叩かれ、反射的に隣を見ると。

 「う、うわっ!!」

 まさにたった今まで思い浮かべていたその顔が真ん前にあり、文次郎は仰天して体を飛び上がらせた。

 「…ど、どど土井先生…!?」

 驚いて尻餅までついてしまった文次郎に、やはり吃驚したように目を丸くしているのは、一年は組の教科担当、土井半助。

 「すまん、そんなに驚かせちゃったか…?」

 彼は文次郎の方へ片手を差し伸べながら、微苦笑を浮かべた。

 「い、いえ…。すみません、考え事をしていて…」

 ばくばくと相手に聞こえてしまいそうなほど音を立てる心臓をどうにか宥め、文次郎は差し出された手を取った。

 「考え事?」

 半助が、まっすぐに文次郎を見る。
 心の奥底まで見透かすような、大きな目――。

 「いえ、大したことでは…」

 「ふぅん…。今日の夕飯の献立について、とか?」

 のんびりと言われたその台詞に、文次郎は危うくずっこけそうになった。

 なんでそうなるんだっっっ。

 「ちがいます!!」

 全力で否定すると、からからと屈託なく笑われる。

 「ははっ、すまんすまん。冗談だよ。夕飯について考えていたのは、この私だ」

 「……はぁ……」

 、、、そうだった、この人はこういう性格だった。
 文次郎はがっくりと脱力した。
 伊達に“あの一年は組”の担任をやってはいない。
 こういう所は彼の受け持つ生徒達とそっくりだ。
 しかしわざわざこんな所まで、夕飯の話をするために追いかけてきたわけではあるまい。

 「あの…、私に何か?」

 「ああ。それさ、ちゃんと落とさないとかぶれるぞって言いに来たんだ」

 「?」

 「その朱色」

 ちょいと指先で首筋を示される。

 「……あ……」

 「その色、木の皮からとってるんだけど、首筋とか皮膚の柔らかい所に長くつけてるとかぶれるんだよ」

 そう言って半助は、文次郎の手元の桶から手拭いを掬い上げ、両手で軽く絞った。
 きらきらと夕陽が水に反射する。

 「ほら、うしろ向け」

 「え…」

 「拭いてあげるから」

 「じ、自分でやれます!」

 「自分じゃ見えないだろ?」

 「ですが…」

 「いいからあっち向きなさい。ほんとの話、これを甘く見ると痛い目に合うんだって」

 有無を言わせぬ口調で、くるりと体を回転させられてしまい。
 文次郎はそれ以上の抵抗を観念せざるをえず、しぶしぶ彼の言うとおりにした。

 ………。

 背後にまわった半助に、文次郎の体が僅かに緊張する。
 たとえ相手が教師であっても背後をとられることに抵抗を感じてしまうのは、もはや忍びの本能としか言いようがなかった。文次郎が何の抵抗もなく己の背を向けることができるのは、家族を別にすれば、六年間同じ部屋で寝起きを共にしてきた仙蔵だけだ。恋人でさえ、だめだった。
 文次郎が体を強張らせたことに半助が気付かぬはずはなかったが、彼は全く気にした様子なく淡々と手拭いを滑らせてゆく。

 「さっきは、すまなかったな」

 文次郎の項をゆっくりと拭いながら、静かに半助が言った。

 「え?」

 「本当はあんな一方的なやり方じゃなく、ちゃんと最後まで戦わせてやりたかったんだけど」

 「……」

 「お前達が思いのほか頑張ってくれたものだから、予定の時間をだいぶ過ぎていたんだ。陽も暮れてきたしリクルーターへのアピールももう十二分にできただろうという判断で、残っていた立花とお前は簡単に切り上げるようにと学園長から私達にお達しがあったんだよ。それでまぁ、少しだけ本気を出させてもらったというわけなんだ」

 「仙蔵?」

 「ああ、お前は最後だったから知らないのか。お前の次に最後まで残ったのは、立花だ」

 ふぅん…、次点は仙蔵だったのか。
 まあ全く不思議はないが。

 にしても“少しだけ本気を出させてもらった”、か…。
 こっちは身動き一つとれず、どころか気配さえ察知できないままに頸動脈を割かれたというのに。
 あの洞窟の一件で十分にわかっていたつもりだったが、改めてこの教師との力の差を思い知らされる。

 「やっぱり、結構色がつくな、これ」

 彼はそう独り言のように呟いて、一度手拭いを水で洗い、そして再び文次郎の首筋に宛がった。
 冷たく柔らかなそれに黙って身を任せながら、文次郎は、今日演習が終わってからずっと己の思考を占め続けてきたことについて、再び思いを巡らせた。

 「……」

 今日、あの瞬間。
 俺がこの人に対してどんな感覚を覚えたか。
 それを知っても、それでもこの人は、こんな風に俺に接するだろうか。

 よく知っている、だがあんな森の中で、苦無片手に感じるような類のものでは決してない、それ――。

 首筋を滑るざらついた布の感触に、再び身の内にそれが生まれそうになり、文次郎は慌ててこくりと唾を飲み下した。




 「はい、終わり。綺麗にとれたぞ」

 「……」

 「潮江?」

 「あ…、は、はい」

 「どうした?ぼけっとして」

 心配そうに覗き込まれ。
 文次郎は改めて、目の前の顔をまじまじと見た。

 年の割には童顔だが。
 どこからどう見ても、男で。
 そして、自分の教師。


 ………まずいだろ……さすがに………。


 口が裂けたって絶対に言えやしない。

 あのとき、この人に欲情してしまった、だなんて。
 それも、女を相手にするときより遥かに強烈に―――。







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