目を覚ますと、温かな布団の上に寝かされていた。


 ここ、は……?


 平太は首を僅かに動かして、周囲を見回す。
 闇の中、一本だけ灯された蝋燭にぼんやりと照らされたそれは、よく見慣れた景色だった。
 学園の医務室である。


 ……そうか、俺……帰ってきたんだな……。


 どれくらい眠っていたのかはわからない。
 だがまだ外が闇に沈んでいるということは、それほど長い時間ではないのだろう。
 辺りは、しんと静まり返っている。
 服は寝ている間に寝巻に替えられており、左胸の怪我の手当ても終わっていた。
 丁寧に巻かれた白い晒から、薬草の匂いがする。
 布団の傍らには火鉢が置かれ、時折ぱち、と炭のはぜる音が聞こえた。
 部屋が暖かいのはそのためか…と考え、その温もりに誘われるように、平太は再び瞼を閉じた。






 す、と襖の開く気配に、平太の意識が浮上する。
 しばらく、うとうとしていたようだ。
 ぼんやりと目だけで入口の方を窺うと、半助が盆を片手に襖を閉めるところだった。やはり平服に着替えている。
 布団の中から見上げている平太の視線に気付き、半助は静かに微笑んだ。

 「起きたのか。……体は?気持ち悪くはないか…?」

 「はい…」

 平太の声は、ひどく掠れていた。
 寝起きのせいもあるが、屋敷を脱出する際に煙を吸い込んだため、喉が少しやられたのかもしれない。

 「新野先生が、毒は弱毒性のものだから、熱が下がれば心配はないだろうと仰っていた」

 そう言って半助は平太の傍らに座り、その汗ばんだ額に掌をのせた。

 「……まだ、高いな……」

 半助が眉を顰める。
 ひんやりとした手が、心地いい。

 「体、起こせそうか…?今、粥を作ってきたんだ。お前、昨日の昼から何も食ってないだろう?あまり食欲ないかもしれないけど、薬も飲まなきゃいけないし、少し腹に入れておいた方がいい」

 「はい」

 平太は、いつものように起き上がろうとして、全く力が入らないことに気が付いた。思った以上に、体は疲弊しているようだ。
 気付いた半助が平太の背に両腕をまわし、抱き込むようにして、ゆっくりと平太の体を起こしてくれた。
 だが半助は、そのままじっと動かず、離れようとしない。
 平太は、訝しんで半助を見た。

 「…先生…?」

 と、背にまわされた手に力が込められ、ぎゅぅ…っときつく抱き締められた。驚いて見下ろした平太の胸に、半助が頭を押し付ける。
 半助の体は、小さく震えていた。

 「………」

 平太は、半助の背に静かに手を置いた。

 「……ごめんな、心配かけて……」

 震える背を撫でながら言うと、胸に押しつけられた頭が左右に振られる。

 「……っ…お前の……せいじゃ…っ…ない…だろ……っ」

 しゃくり上げるように返された声に、平太は半助の顔を横から覗き込んだ。

 「……泣いてる、の……?」

 半助は答えなかったが、僅かに見える目には、涙がいっぱいに溜まっていた。

 「……ぅ…っ……く……っ」

 とうとうその大きな目から滴が溢れ、ぽたぽたと布団の上に染みを作る。

 「……泣かないでよ…先生……」

 平太は、困ってしまった。
 火薬倉庫のときと違い、今は、自分が原因で泣かせてしまっているのである。
 安心させるように、繰り返し、半助の背を撫でることしかできない。

 「ほら、俺はここにいるだろう…?いつだって先生の傍にいるから……」

 すると、半助の目からさらにぼろぼろと大きな粒が零れ落ちた。
 大きく肩を震わせ、子供のようにしゃくり上げて泣く半助に、平太は困り切ってしまう。
 そして涙で濡れた頬を掌で包み込み、指の腹で撫でてやりながら、言った。

 「…泣かせちゃったな…。俺が先生を泣かせていい時はひとつだけって、決めてたのに」

 「……死んだとき…とか言ったら殴るぞ……」

 こんな風に泣いているのに凶暴なことを言う半助に、平太はつい笑ってしまう。

 「はは。違うよ」

 そして微笑んだまま、耳元に唇を寄せて囁いた。

 「俺が先生を泣かせていいのはね、閨の中でだけって、決めてたんだよ…」

 「………」

 半助は、黙り込んでしまった。

 「……怒らないの、先生……?」

 今言っていい冗談じゃなかったかな、と平太は少し反省した。
 もっとも、全くの冗談でもないのだが。

 半助は平太からゆっくりと体を離すと、傍らの粥を差し出した。

 「……馬鹿なことを言ってないで……、ほら、食え」

 「先生が食わして……くれないよな」

 まだ潤んだ目でじろと睨まれ、平太は大人しく椀を受けとった。
 あまり食欲は感じていなかったが、ひと匙口に入れるとそれはとても美味しく、結局椀一杯を平らげてしまった。
 そんな平太を、半助は目を細めて眺めていた。

 「お代りは…?」

 空になった椀を受け取りながら、半助が聞く。

 「ん、もう十分。ごちそうさまでした」

 平太は手を合わせた。

 「じゃあ、次は薬だ。伊作がこの夜中に精魂こめて処方してくれたんだぞ。ありがたく飲め」

 と、濃い緑色の液体の入った椀を差し出され、平太は沈黙した。
 そんな平太の様子に、半助が首を傾げる。

 「どうした?」

 「………伊作の薬って……何をどうやったらああなるんだっていう位、苦いんだよ………」

 ぼそりと呟かれた言葉を聞いて、半助が弾けるように笑った。

 「子供みたいなことを言うな。良薬口に苦しって言うだろう?」

 「先生だってあれを飲めばそんなことは言えないはずだって!」

 「…ふぅむ…」

 しばしの間、半助は手の中のいかにも苦そうな色をしたそれをじ…と見つめていたが、徐に椀に口を寄せたかと思うと、こく、と口に含んだ。
 そして、呆然とそれを見つめる平太の頬に手を添え、少し上向かせるように口を開けさせて、ゆっくりと唇を合わせた。

 「っ…」

 平太の喉に、強烈な苦味が流れ込んでくる。

 だが――。

 …こくり…と喉を鳴らし平太がそれを飲み下したのを確認すると、半助はそっと唇を離し、小さく笑みを浮かべた。

 「ちゃんと飲めたじゃないか…」

 「………」

 平太の口内は、まだ薬の苦味が広がっていた。
 だが、半助の唾液が混ざったそれはとてつもなく甘味に感じられ、平太は再びそれを求めるように顔を寄せ、半助の唇を塞いだ。

 「ん……」

 半助は、平太の促すままに唇を開き、平太の舌を優しく迎え入れてくれた。
 互いの吐息と、唾液と、薬の苦味が甘く混じり合う。
 それが与える強烈な刺激に、平太はくらりと眩暈を感じた。

 「……んっ…へい、た…・・」

 半助は、平太に応えるだけでなく、自ら舌を絡めてきた。
 半助には珍しいことだった。
 平太は半助の不安をひとつひとつ取り除くように、その口内を時間をかけて愛した。
 互いの存在を十分に確かめ合い、やがて怪我のせいではなく体の熱が上がり始めた頃、平太はやんわりと半助の体を離した。
 半助は一瞬ぼんやりと平太を見、それから

 「……あ……、すまない…。…お前、熱があるのに……」

 夢から醒めたような顔でそう言った。
 平太は、苦笑する。

 「……いえ、そうじゃなくて……。これ以上すると、とめられなくなるから……」

 「………」

 半助は、じっと平太の顔を見つめたまま、また黙り込んでしまった。
 やはり先程から、半助の様子はどこかおかしい。
 どうしたのだろうか…。


 しかしそれ以上考えを進める前に、平太の体は急な眠気に包まれた。
 薬が効いてきたのかもしれない。
 
 重力に誘われるまま、再び体を布団に沈める。
 瞼が重くなり、ゆっくりと下りてゆく。


 ぼんやりと霞みゆく意識の中、瞼に押し付けられる柔らかな感触を感じた。
 とても温かく、優しい感触だった。


 「すこし、眠れ…」


 半助の低く落ち着いた声を遠くに聞きながら、平太は穏やかな眠りへと落ちていった。











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