この手を伸ばせば いつも当たり前にそこにある温もり
その温もりが どんなに儚くて
その当たり前が どんなに得難いものか
自分は 誰よりも知っていたはずなのに
その夜、刻限を過ぎても、多紀平太は戻らなかった。
六年、それも後半ともなれば、実習の内容はプロの任務と変わらない。
否、プロの任務そのものである。
学園が外部から受けた依頼を、生徒達が遂行する。そしてその結果が、成績に、果ては将来の就職へと反映するのである。
依頼元は目的さえ完遂されれば、実習か否かを問題にすることはまずない。また忍術学園の質の高さは巷に知れ渡っているため、敢えて学園の生徒を指名してくる者さえいた。
実習の機会は各生徒に均等に与えられ、当然ながら、その難易度は生徒の能力に比例する。でなければ任務に差支えるし、何より生徒自身の命に関わるからだ。
そして平太は以前から実技の成績が優秀で、難易度の高い任務を幾度となく経験していた。今回の、豪族屋敷に潜入し密書を盗み出すという任務は、過去のそれらに比べれば決して難しいものとはいえない。
亥三つ。
それは最終の刻限で、与えられた任務内容を考えれば、もうとっくに戻っていていいはずであった。
半助は、学園の正門前に立ち、闇に沈んだ山々をじっと見つめた。
霜月も残すところあと三日。
夜になり空気は一段と冷え込み、冷たい木枯らしがざぁと音をたてて木々の間を吹き抜けてゆく。
「山田先生、土井先生」
門の内から声がかかった。
明秀である。
「…あいつ、まだ戻らないんですか」
この時刻になっても戻らないことが何を意味するか、それを承知している明秀は険しい表情を教師達へ向けた。
「………。行きましょう、土井先生。遅すぎる」
低く抑えた声音で告げた伝蔵に、半助が、黙ったまま頷く。
「俺も行かせて下さい」
「いや、土井先生と二人の方がいい。お前はここで待っていなさい」
明秀の要望を、伝蔵は即座に却下した。
こういう事態においては未熟な人間は足手纏いだ、という意味である。
唇を噛み黙って視線を下げた明秀の肩を、半助は軽く撫でて、静かに言った。
「心配するな。平太は、私と山田先生が必ず連れて戻る」
「……はい」
明秀は胸の内を託すように、半助の手に自分のそれを重ね、きつく握り締めた。
半助の手は、氷のように冷たかった。
明秀が手を開いた次の瞬間、二人の教師の姿は闇に消えていた。
目の前に広がる光景に、半助は茫然と立ち尽くした。
空が、赤く染まっている。
始めは山が燃えているのかと思った。
だが近づいてみて、わかった。
燃えているのは山ではない。
黒々と沈黙する山々の合間に生き物のように立ち昇る炎。
それが、平太が潜入しているはずの豪族屋敷を包み込んでいた。
「……一体…なに…が……」
屋敷を見下ろす丘の上からその様を確認し、半助の声が震える。
「……わからん……。…わからんが、この火の回り方は普通じゃない。恐らくどこかの忍びが潜り込んで、火を放ったんだろう。……敵が多いことで有名な家主だ」
「…平太、は……。平太を助けに行かないと…!」
「っ待て、半助…!」
燃え盛る炎へと地面を蹴った半助を、伝蔵は強い力で引き戻した。
「まだ中にいるとは限らん。これだけ時間が経ってるんだ」
「ですが、平太は戻ってきていません!」
「…ああ。だが仮に中にいるとして、屋敷のどこにいるかもわからんのだ。…それにもし万が一中にいるなら…」
「……いるなら……?」
「………」
黙り込んだ伝蔵の横顔を、突如強い光が照らした。
「!」
はっと振り返ると、紅蓮の炎が、最後の力を振り絞り燃え上がっていた。
そして一瞬ののち、獣の唸り声のような不気味な音をたて、屋敷は瞬く間に崩れ落ちた。
半助は声もなく、その悪夢のような光景を見つめた。
周囲の一切の音が、遠ざかった。
全身から力が抜け地面へと倒れ落ちる寸前、伝蔵はその体を抱きとめた。
「半助!」
「………」
屋敷を焼き尽くしたことに満足したかのように、炎は見る見る勢いを弱め、僅かな残り火を残して、辺りに暗闇と静寂が戻っていた。
無事抜け出した一部の使用人達のざわめきだけが、闇を伝い自分達のいる場所まで微かに届いている。
伝蔵は力の抜けた体を腕に抱き、表情の消えたその顔を見つめた。
それは、僅かな月光の下でも明らかなほど蒼白だった。
半助の就職時の資料から、伝蔵は半助の生い立ちをある程度は把握していた。
幼い頃に家族を失ったその原因も――。
伝蔵は半助の頬を軽く叩いた。
「…半助、しっかりしろ。まだ平太があの中にいたと決まったわけじゃない。いない可能性の方が高いんだ」
「………」
「我々は何のためにここへ来た…?平太を助けに来たのだろう?」
すると、半助がふ…っと伝蔵を見上げた。
そして小さく呟く。
「…助けに…」
「ああ。もしかしたらまだこの付近にいて、何らかの理由で動けないのかもしれん。手分けをして探すんだ」
「……」
「…できるな?半助」
半助の目にゆっくりと光が戻り、焦点を結んだ瞳が伝蔵を見上げる。
「はい」
「よし」
今度ははっきりと頷いた半助の頭を、伝蔵はごしごしと撫ぜた。
伝蔵は半助のことを、心からもう一人の息子のように思っていた。
「半助、お前は屋敷の裏にまわれ。私は表を探す。急げ!」
「はい!」
二つの影が左右に散った。
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