月明かりの差し込む教室。
見慣れた机のひとつひとつを教壇から眺めていた半助は、ガラリと戸が開いた音にはっと顔を上げた。
「土井先生!もうみんな食堂に集まってますよ」
「ああ、もうそんな時間か。すまない、今行く」
これから食堂で、卒業祝いのささやかな宴が開かれるのである。
卒業生、在校生、教師、それから昼間行われた卒業式のためにやってきた卒業生の父兄達も参加する。
時間になっても半助が現れないものだから、学級委員長の平太が探しに来てくれたのだろう。
半助が行こうとすると、だが平太は教室の中へ入ってきて、そっと半助の顔を見た。
灯りのない部屋で一人立っていた半助に、何かを感じたのかもしれない。
「どうかしましたか?」
「ん…。なんかさ、明日からお前達がこの教室にいないことが信じられなくて、な…。はやいよなぁ、時がたつのって」
半助が並ぶ机に目をやって微笑むと、平太も同じように教室を眺めた。
「ええ、本当に」
しばらく二人とも黙ってそうしていたが、ふいに平太が半助の方へ向き直った。
「…先生」
改まった声音に、半助も、平太の方に体を向ける。
「一年間、ありがとうございました」
そう言って、平太は綺麗に礼をした。
「……」
そして頭を上げまっすぐに自分を見るその顔に、半助は目を細めた。
――本当に、いい顔になったな。
半助は込み上げてくる気持ちをこくりと飲み込み、微笑んだ。
「…いや、私こそ。お前達には色んなことを教えてもらって、本当に、感謝してる。――なんか改まってこういうのって、照れ臭いな」
頭を掻いて苦笑すると、平太もやはり照れ臭そうに微笑んだ。
「じゃ、そろそろ行きましょうか、先生」
「…」
「…どうしました?」
動きを止めた半助に、平太が首を傾げる。
半助は、ぽりぽりと人差し指で頬を掻いた。
「いや、その…。今日お前は卒業して…、もう、俺は“先生”じゃなくなって……。…ええと……・・」
どう言えばいいのか……。
だが平太は何かに気付いたように、にこりと笑った。
「ああ、そうですね。…じゃあ…」
正面から見つめられる。
「半助」
「…うん」
「これからもよろしく」
そう言って顔が近づいたかと思うと、ちゅっと音をたて頬に口づけられた。
「わ…っ。ちょ、お前教室で!」
頬を押さえて怒鳴る半助に、平太は楽しそうに笑う。
「もう“生徒”じゃないんだから、構わないでしょう?」
「構うだろ!」
「えー、これから食堂で俺達のこと公表しようと思ってたんだけどな」
半助はぎょっとした。
「な…っ!頼むから、それだけはやめてくれっ」
そんなことされたら学園長にも山田先生にも顔向けできない!と慌てると。
「ははっ。冗談ですよ」
平太は可笑しそうに噴き出した。
「ほんと可愛いんだからな、半助ちゃんは」
そう言っていつかと同じように笑った平太に、半助は、やっぱり明日からこいつがこの学園にいないなんて信じられないな……とぼんやりと思う。
「……」
…う……。
やばい……、泣きそうだ……・・。
さっきせっかく堪えた涙が再び込み上げてきて、半助は唇をぎゅっと引き結んで俯いた。
と。
そっと優しい手が、頭に触れ。
そして、ふわりと暖かい胸に抱き込まれた。
「俺…、先生の生徒になれてよかったよ」
「っ…」
直接伝わる振動とともに耳に届いたその言葉に、とうとう我慢していた涙が目から溢れる。
教師になり、何もかもが手探りのなか必死で生徒達と向き合ってきた半助にとって、それは今、どんな愛の言葉よりも嬉しい、最高の言葉だった。
ひく、と肩を震わせる半助の頭をくしゃくしゃと撫でながら、平太が言う。
「泣き虫半助」
「…うるさい…」
「寂しくなっても、浮気すんなよ」
「するわけ…ないだろ…っ」
「泣きたくなったら俺を呼んで」
「仕事があるだろう…」
「それでも、来るよ。全速力で。そのために城勤めじゃなくてフリーになったんだから」
!?
半助の涙は、一瞬にして引っ込んだ。
「お前、それって…!」
平太は腕の中から見上げる半助の頬を柔らかく撫でて、微笑む。
「だって、俺の恋人はこんなに甘えん坊で泣き虫で。それを放って自由の少ない城勤めなんて、できるわけないだろ?」
「俺のために大事な将来を決めるなんてっ」
とんでもない!!と怒鳴ると。
「ははっ。冗談ですって」
平太は弾けるように笑った。
「そんなわけないでしょう?」
…どうだか。
こいつならやりかねない。
じぃと見つめる半助に、平太は苦笑し、少し真面目な顔になった。
「本当に、冗談だよ。色んな世界を見てみたかったんだ。自分の目で。厳しいことはわかってるけど。…明秀が城勤めを選んだのは、意外でしたけどね」
そう。
いつまでも進路調査票を出さなかったこの二人の進路は、少なからず半助を驚かせた。
半助もフリーで働いていたからよくわかるが、フリーでは仕事ごとに主が変わる。選択権はこちら側にあるとはいえ、今日の主が明日の敵になることだって十分にあり得るのだ。
平太の性格ならば、そういったいわばドライな世界よりも、誰か決まった主のために仕える方を選ぶだろうと半助は思っていた。しかし平太は、フリーの道を選んだ。
一方、絶対にフリーになるだろうと思っていた明秀から城勤めにすると聞かされたときは、平太の時以上に驚いた。
どういう経緯かは話してくれなかったが、ずっと仕えると心に決めていた主なのだという。
平太も何も知らなかったらしく水臭いと怒っていたが、明秀らしいといえばとても明秀らしかった。
そこに、突然ガラッと戸が開いた。
「平太ー。何やってんだよ、みんな待ちくたびれてるぜ……と」
涙目で平太の腕の中にいる半助を見て、明秀の言葉が止まる。
半助は、がばっ!と平太の腕から飛びのいた。
「わ、わるい…。呼びに来てくれたのか、明秀」
「ええ、平太が全然戻ってこないので。……邪魔したか?」
明秀は平太に向かって聞いた。
「ああ、邪魔」
「ひどいな。他の奴らが呼びに行きそうだったのを止めて、俺が来てやったんだぜ。どうせこんなことだろうと思ったから」
淡々と言われ、半助は返す言葉がなく、真っ赤な顔を隠すように足早に戸口へ向かった。
「さ、先に行ってるぞ!」
たたたっと駆けていく足音が遠ざかる。
平太はふぅと息を吐いて、隣の親友を見た。
「からかうなよ」
「顔、真っ赤にしてたな」
明秀は、楽しくてたまらないというようにくくっと笑った。
「あんな半助ちゃんも、もう見納めかー。寂しくなるな」
「すぐに、そんなこと言ってられないくらい忙しくなるさ」
「ま、な」
明秀と並んで廊下へ出るとき、平太はもう一度だけ教室を振り返り。
そして、ぱたんと戸を閉めた。