土井半助が重傷を負ったという知らせが忍術学園に届いたのは、梅雨の季節のある夕暮れ時のことだった。
その日は休日だったが、連日の雨で作法委員会が使用している倉庫に雨漏りが発生し、作法セットが錆びる恐れがあったため、仙蔵は緊急召集をかけて委員総出でそれらを会計委員の部屋に移動した。
もっともその避難先も汗臭く暑苦しい委員長のせいでカビの心配があったのだが、火薬・体育・用具委員の倉庫はやはり雨漏りの可能性があるし、保健委員の医務室や図書委員の図書室に運び込むわけにもいかず、他に思いあたる屋内の部屋がなかったのだから仕方がない。
(梅雨が終わるまでの辛抱だ、贅沢は言うまい。あの鍛錬馬鹿は何やら文句を言っていたが、知ったことか)
そして雨漏りの影響を受けそうなすべての物を運び終えた頃には既に夕餉の時刻となっており、後輩達と一緒に食堂で食事をとっていたところにヘムヘムがやって来て、学園長室へ来るように言われたのである。
学園長室で仙蔵の前に置かれたのは、一通の文。
その裏に書かれた名は、仙蔵もよく知る人物だった。
多紀平太。
二年前にこの学園を卒業した、仙蔵の先輩である。
文の内容は、半助がシラサギ城とクロサギ城の争いに巻き込まれ重傷を負ったため暫く学園に戻れそうにないこと、従ってしんべヱと喜三太を誰かに迎えに来させてほしいこと、その二点だった。
そこで指名されたのが、仙蔵である。
(…私の記憶が正しければ、あいつらは用具委員ではなかったか…?それがなぜ留三郎でなく、私なんだ)
学園長による命令は絶対であり、文句を言っても無意味なことはわかっているが、どうにも納得がいかない。
(どうも最近、私と奴らがセットで考えられているように思うのは気のせいだろうか…)
仙蔵が己の不吉な考えにぶるっと身震いをしたとき、ようやく林の向こうに指定された屋敷が見えてきた。
朝靄の中にひっそりと佇むその屋敷は思っていたより立派な造りではあったが、まだ建てられて間がないのか、あまり生活感が感じられない。
(さて、どうするか)
予定よりだいぶ早く到着してしまったため、中の者が起きているかどうか疑問である。
しかし仙蔵も夜通し歩いてきてさすがに疲れていて、休みたかった。
仙蔵は入口の前で雨笠の露をはらい、ひと呼吸し、それからとんとんと静かに戸を叩いてみた。
するとほとんど間を置かずに戸が開き、中から二十代半ばのちょっと見ないような美人が顔を出した。
「――忍術学園の生徒さんね?」
一瞥の後、ニコリと綺麗に微笑まれ。
「はい」
仙蔵は僅かに緊張し、頷いた。
「待ってたわよ〜。遠いところご苦労さま。さ、どうぞ中に入って」
恐らくくノ一であろうその女性は小夜と名乗り、仙蔵を居間へと通してくれた。
「疲れたでしょう?まだしんべヱ君も喜三太君も寝ているから、ここでお茶でも飲んで休んでいて」
「あの、こんなに早くにお邪魔してしまい…」
やはりさすがに非常識だったかと畏まった仙蔵に、小夜はカラカラと笑って手を振った。
「そんなこと気にしないでいいのよ!どうせ今はうちものんびり寝ていられる状況じゃないし。旦那もそろそろ偵察から戻ってくるはずだから」
そう言って小夜は軽い足取りで土間へと下りていった。
竈に火がついているところを見ると、どうやら朝食の準備中だったらしい。
寝ていられる状況じゃないということは、やはりシラサギ城との間に急な動きがあったのだろう。
「あの、土井先生のご容態は…」
仙蔵の問いに、小夜は眉根を寄せ、すこし表情を曇らせた。
「命に別状はないんだけどね、ちょっと背中の傷が深くて、動ける状態じゃないのよ。…うちの城の事情に巻き込んでしまって、本当に申し訳なかったと思ってるわ…」
「……」
「そういえば平太ってば、仙蔵君が来てくれたのに、どこ行っちゃったのかしら。…きっとまた先生のところだわ。待ってて、呼んでくるわね」
「あ、いえ。私も予定より早く到着してしまったので…。あとでご挨拶させていただくので、今は構いません」
仙蔵は朝食の支度をしている小夜の手を煩わせてはと思い、そう言った。
「そう?ごめんねー、気の利かない奴で。…って、ごめんなさいね、君の先輩でもあったわね、あいつ」
ハハ…と苦笑した小夜に、仙蔵は気さくな人だな、と好感を持った。
仙蔵のいる居間は屋敷の表の庭に面していて、濡れ縁越しに紫陽花の群生を眺めることができた。
今を盛りに咲き乱れる青紫の花々が、雨上がりの朝露に濡れてしっとりとした趣を感じさせる。
「綺麗な紫陽花ですね」
「最初見たときは忍びの家に花なんてって思ったけど、案外良いものよねー。その庭、屋敷の裏までずっと続いていて、結構広いのよ。朝食までまだ時間があるから、適当に散歩してくれていいわよ」
「…いいんですか?」
仕事に使っている家だろうにと仙蔵は思ったのだが、小夜は構わないのだと笑った。
「見られて困るものは置いていないから大丈夫。でなかったら君の先生を連れてきたりしないわ。ここは住居としてしか使ってないの」
それならば、と仙蔵は履いてきた草履を玄関から移動し、濡れ縁から庭へと下りた。
庭師がよほどの紫陽花好きなのか、その屋敷は紫陽花屋敷と呼んでいいくらいに見事に紫陽花に囲まれていた。
小夜の言ったとおり庭は奥の方へと広く続いており、複雑に凹凸のある外壁を回り込むように歩いてゆくと、やがて開けた一画に出た。
そこは屋敷のちょうど裏手にあたるらしく、庭を望むように配置されている客間と思われる一室があり、その襖が開かれているのが少し離れた仙蔵の位置からも確認できた。
部屋には布団が敷かれていて。
目を凝らしてみると、そこに寝ているのは半助だった。
そして。
(多紀先輩――)
仙蔵の記憶の中より少し大人びた青年が、枕元に座っていた。
しかし仙蔵は、声をかけることはできなかった。
なぜなら青年の手が、半助の髪を愛おしそうに撫でていたからである。
と。
青年の顔がゆっくりと半助の顔に近づき。
(!)
唇が、重なった。
仙蔵は思わず息をのむ。
その気配に気づいた青年がふっと顔を上げ、こちらを見た。
「………」
こんな状況で言うべき言葉など、思いつくわけがなく。
ただ黙って見返すことしかできない仙蔵に、青年は気まずそうにするでもなく、にっこりと、しかし悪戯っぽく笑った。
「見られちゃったな」
その笑みに仙蔵ははっと我に返り。
途端にひどく腹が立った。
よく言う、と思う。
(見られてもいいと思っていたくせに)
もちろん仙蔵が裏庭に来ることまでは予想していなかったろうが、早朝とはいえ襖を開け放した状態であんなことをしていたのだ。
たとえ人に見られても構わないと思っていたに決まっている。
青年はもう一度半助の寝顔を見てから、静かに立ち上がり、そっと襖を閉めた。
そして自分も庭に下りてきて、「先生が起きちゃうから、あっちへ行こう」と仙蔵を表の方へ促した。
多紀平太。
仙蔵の記憶の中の彼は、とにかく目立つ存在だった。
立ち振る舞いが特別に派手だったわけではないが、要は女性からの人気が半端ではなかったのだ。
親友の高久明秀と共にくの一教室の人気を二分していたのは、当時学園にいた者なら誰でも知っている事実で。
彼らが並んで歩いているだけでくの一達がそわそわと落ち着かなくなっていたあの光景を、仙蔵は昨日のことのように思い出すことができた。
そしてそんな彼らの担任だったのが、現在の一年は組の教科担当、土井半助だった。
「お前が来てくれたんだな。ありがとう」
来た道を戻りながら、青年は先程の光景などまるでなかったかのように話し始めた。
「いえ…」
「けど、しばらく見ないうちにでかくなったなー、仙蔵」
「もう六年ですから」
「はぁ〜。早いよなあ。なんか一気に歳食った気分だぜ…」
そう言って隣でわざとらしく溜息をついた青年に、何を言ってんだか、と思う。
二年ぶりに見る彼は当時のままの愛嬌と明るさの中にも精悍さが加わり、仙蔵から見てもはっとするほどの魅力に溢れていた。
相変わらずもてるんだろうな、とそんなことを思う。
「みんな、元気?」
「元気ですよ。小平太も、伊作も」
「文次郎は?」
「――あいかわらずの鍛錬馬鹿です」
「ははっ。そっか」
……。
高久先輩と多紀先輩。
共にくの一教室で桁外れの人気があり、そして親友だった二人だが、少し冷たい雰囲気のある高久先輩に比べて多紀先輩の方が気さくで話しかけやすいと言っている者は多かった。
しかし仙蔵だけは、実はずっと彼が苦手だったのだ。
なぜなら、彼にだけは、自分がずっと胸の奥に秘め続けてきたあの想いを知られているような気がしてならなかったからである。
今だってそうだ。
どうして、文次郎の名を出すのだ。
長次だって留三郎だっているではないか。
二人はすぐに、元いた表の庭に着いた。
土間からは味噌汁のいい匂いが漂っている。
「小夜の朝食、できたみたいだな。しんべヱ達を呼んでこなきゃ」
「…あ、先輩!」
さっさと草履を脱いで居間へ上がろうとした青年を、仙蔵は咄嗟に呼び止めた。
「なに?」
青年が振り返って、仙蔵を見る。
「…あの…」
さっきの―――。
「………いえ。すみません、なんでもありません」
「?」
青年は少し不思議そうに首を傾げ、しかしすぐに「あいつら、起きてっかなー」と言いながら廊下の奥へと姿を消した。
先輩は、先生のことが好きなのか。
先生も、同じ気持ちなのか。
ふたりは恋人同士なのか。
正直、気にならないといえば、嘘だった。
しかし、少なくとも青年が半助を心から大事に思っていることは、先ほどの彼の表情で十分にわかったから。
これ以上は自分が立ち入るべきことではないと、仙蔵は思ったのだ。
それぞれに、それぞれの想いがあって。
それぞれの望む形がある。
仙蔵自身がそうであるように。
その後仙蔵は、しんべヱ喜三太とともに朝食をとり、目を覚ました半助に簡単な挨拶を済ませて、早々に出立してしまった。
数か月後、この二人の関係が自分の長年の想いに係わってくることになろうとは、あのときもう少し突っ込んで聞いておいてもよかったかもしれないと少しだけ後悔することになろうとは、このときの仙蔵は全く予想していなかった。
「甘雨」は春の雨ですが、甘々なこの二人に降る雨はいつでも甘雨^^
そして『雨あがり〜』で半助は「接吻もしてこない」と不満に思っていましたが、半助が寝ている間にはこんなこともあったのですよ。
起きているときにしてしまうと止められなくなることが平太にはわかっていたので、避けていただけで。