卒業試験も無事終わり、あとは卒業式を待つのみとなった三月の最初の休日。
 昼餉から戻った半助は、ふわぁ〜と欠伸をしながら部屋の襖を開けた。
 春の柔らかな空気と麗らかな陽射しは、半助の眠気を誘うのに十分だった。
 すこし昼寝でもするかな・・・と考えたそのとき。
 ふわり、と甘い匂いが鼻先に漂った。
 梅の香り、である。

 おかしいな。
 この近くに梅の木なんてなかったはずだが――。

 半助は首を傾げた。
 しかし、香りの正体はすぐに判明した。
 机の上に、薄紅色の花を咲かせた梅が、一枝置かれていた。
 よく見ると、同じ薄紅色の文が結ばれている。
 開いてみると。

 ・・・・・・宝さがし?

 差出人の名は書かれていないが、見慣れすぎるほど見慣れた筆跡から、誰の仕業かはすぐにわかった。
 問題は、その内容である。

 『裏門を出て、西に向かい、三つめの角を右に曲がり、十番目の桜の木』

 、、、何のことやら。
 しかし午睡の他に特にする事もなかった半助は、服を着替え、ぽてぽてと裏門を出た。
 指示された木は、すぐに見つかった。
 その丁度半助の目の高さ、まだ固い小さな蕾をつけた桜の枝に、再び桃色の文が結ばれていた。
 開くと。

 『峠の茶屋のお咲さん』

 、、、何を遊んでいるんだ、あいつは。
 半助は呆れた。
 だが、こういうのは嫌いではない。
 いや、はっきり言えば、大好きだった。
 天気もいいし、食後の運動がてら付き合ってやるか。
 半助は、峠の茶屋を目指した。

 お咲さんはいつものように店にいた。

 「お咲さん!」

 「あら、先生。待ってたわよ。はい、これ。なんだか楽しそうね〜」

 くすくす笑って、可愛らしい三色団子を一本差し出された。
 串にはもちろん文が結ばれている。

 「お代は結構よ」

 文の主のことがお気に入りのお咲さんは、そう言ってニコリと笑った。
 礼を言い、もぐもぐと団子を頬張りながら文を開くと。

 『銀楽寺の鐘楼』

 そんな調子で、指示は次から次へと続いた。

 『ナメタケ城の門番の七右衛門さん』
 『シメジ橋の袂のお地蔵様』
 『ハルサメ山の炭小屋の権之介(犬)』・・・・・

 いい加減ゴールはまだか・・・と半助が思い始めた頃。
 絶秒のタイミングで、最後の指示は届いた。

 『東の山道をまっすぐ登ったその先に、あなたの探しものはあります』

 東の山道?
 ・・・これのことか・・・?

 道、といえば道といえなくもない、つまりは獣道がそこにあった。
 木々をかき分けかき分け登ってゆくと、ふわりと再びあの甘い匂いが香った。
 甘い、梅の香り。
 進んでいくうちにどんどんそれは強まってゆき。
 その先に。

 紅梅 白梅 黄梅 薄紅色

 柔らかな陽射しのなか、けぶるような色彩で梅の木々が群生していた。
 その中でひときわ大きな樹の上に、半助の探しものはあった。
 普通の人間ならとっくに折れているであろう枝に腰かけ、幹に寄りかかるようにして彼は目を閉じていた。
 全く体重を感じさせない絶妙なバランスは、忍びであれば当然だが。

 あいかわらず、綺麗な奴――

 まるでこの世のものではないようなその光景に、半助は目を細める。
 そういえば一年前、桜の下で初めてこいつに会ったときも、妖と間違えたっけ。
 あの頃よりも幼さが抜けた分、妖しささえ感じられて、少し怖いくらいだった。
 半助が声をかけられないでいると、閉じられていた瞼がゆっくりと開いた。
 そして下から見上げている半助に気づき、ぱっと笑みが広がる。

 「先生!」

 その無邪気な笑顔に、半助ははっと我に返り、微笑んだ。
 やっぱり、平太だ。

 「待ちくたびれて、寝るところだったぜ」

 「そう言うなよ、これでも頑張ったんだから」

 「迷わずにちゃんと来られたんですね。えらいえらい」

 「俺は子供か・・・」

 平太はくすくす笑って半助を見下ろした。
 今日の平太は、なぜか随分と楽しそうだ。

 「先生もこっち来いよ」

 「折れるぞ」

 「そこが腕の見せ所だろ?」

 悪戯っぽく言われ、ならば見てろと、半助は地面を蹴った。
 軽々と枝へと上り隣に座ってみせると、平太は嬉しそうに笑う。

 「やるね。さすが先生!」

 「ふふん、当然だ」



 そよそよと柔らかな風が吹き、木の下よりも一層甘い香りが半助を包みこむ。
 半助はふと、梅の別名が”風待草”であることを思い出した。
 春風を待って、咲くからだ――。

 「こんな風に先生と過ごすのも、あとちょっとかー」

 平太が気持ちよさそうに正面を見ながら、言う。

 「そうだな・・・」

 と、平太がちろんと顔を向け、半助の頬を指先でツンとつついた。

 「そんな顔しないでよ。卒業したくなくなるだろ?」

 「俺がどんな顔してるっていうんだ」

 「平太と毎日会えなくなるのが寂しくてたまらない。卒業してほしくない。このままずっと学園で一緒に暮らせればいいのにっていう顔」

 「・・・そんなこと思ってないぞ」

 「思ってるよ。俺、半助のことはわかる」

 「・・・・・・」

 笑顔で自信いっぱいに聞き覚えのある台詞を言われ、半助は何も言い返せなくなってしまった。

 このままずっと学園で一緒にだなんて、もちろん本気で思っているわけではない。
 平太はこれから外の世界へ出ていかなければならず、半助もそれを望んでいる。
 その気持ちに微塵も嘘はないけれど――。

 言葉を探していると、ふいに平太の手が半助の髪に伸ばされた。

 「花びらがついてる」

 手が、優しく髪に触れる。
 顔を上げた半助の視線と平太の視線が、絡まり――。

 半助は、静かに目を閉じた。


 平太の唇がそっと半助の唇に触れ、啄ばむように小さく吸う。
 二度、三度とそれが繰り返され、やがて半助の口から切ない吐息が零れる。
 それを待っていたかのように、しっとりと、唇が重ねられた。

 「ふ・・・」

 ゆっくりと、互いの舌を絡め合う。
 やがて平太の手が半助の後頭部にまわされ、より口づけが深められた。

 「ふ・・ん・・・っ」

 舌に与えられる痺れるような感覚と、全身を包み込む噎せ返るような甘い匂いに、頭が茫と霞みはじめ。
 
 酔いそうだ・・・・・。


 と、そのとき。
 ビシッ、と何かが折れる音がして、二人は動きを止めた。
 ん・・・?

 次の瞬間。

 「うぉわっ!!」

 二人分の重さに耐え切れなくなった枝が、バキバキッと大きな音をたて崩れ落ちた。
 もっとも、そこは忍び。

 しゅたっ。

 二人とも無様な姿を晒すことなく、どうにか無事に着地することはできたのだが。


 「・・・・・・」

 髪も肩も梅の花まみれになりながら、半助は掌で口を覆い、薄らと染まった顔を背けた。

 ・・・は、恥ずかしい・・・。
 今回は誘ったのが自分なだけに、なおさら・・・・・・。

 しかし、平太はけろりとしたもので。

 「先生、つづき」

 と優しく半助の腕を引いた。

 “つづき”って・・・。
 こいつには羞恥ってものがないんだろうか。

 梅の木にやんわりと背を押し付けられ、再び口づけられる。

 「・・・先生、こんなにいっぱい花びらくっつけて・・・。ふふ、このまま食べちゃいたい」

 耳元への囁きに、半助はすかさず言う。

 「だめだぞ」

 「わかってますよ」



 春風が、薄紅色の花弁を舞い上がらせる。
 優しい香りに包まれながら、半助は誰よりも愛しい腕の中で、再び瞳を閉じた。
 四月になれば、きっとしばらくはお互いゆっくり会う時間はとれないだろうから。
 今はもうすこしだけ、こうして――。










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