桜の伝承は、『桜の森の満開の下』より。
四月。
麗らかな春の陽気に包まれた街道は、土井半助の足取りを常よりも軽くしていた。
彼の目的地は忍術学園。
忍者を志す子供たちが学ぶ学校である。
半助はその学園の新米教師であり、今日はその記念すべき初出勤日だった。
といっても、始業式は今日ではなく明日である。
だが遠方からやってくる生徒が多いこの学園では、教師を含めた全員が前日に学園入りすることが決まりとなっていた。
忍術学園まであと一里余りというところで、半助はふと立ち止まった。
このまま街道を進めば、問題なく学園へ辿り着ける。
だが。
(…ここを抜けると近道じゃないか?)
半助はちろん、と道の西側に位置する緑を見やった。
まだだいぶ陽も高い。
ためしてみるか、と彼は街道を外れると、戸惑うことなく鬱蒼とした森へ足を踏み入れた。半助のような忍びでもなければ、決して通ろうなどとは考えないようなけもの道である。
ちなみに半助が忍術学園を訪れたのは採用試験の日一度きりであり、新たな道の開拓を試みるほど、彼はまだこの付近の地理に通じてはいない。
普段は冷静なのに、妙なところで大胆、というより向こう見ずなところが、半助の欠点だった。
半刻後。
半助はいまだ山の中にいた。
(おっかしいなぁ。そろそろ何か見えてきてもいいはずなんだが…)
周りを見まわしても、右も左も木々が鬱蒼と茂っており、聞こえるのは鳥の声ばかり。
彼のもうひとつの欠点。それは方向音痴であることだった。忍者として致命的ともいえる欠点だが、任務のときは常人の何倍も下調べに念を入れていたので、これが原因で大事に至ったことはこれまでない。だが、その基本的性質は全く変わっていないのである。
(はぁ……。大人しく街道を行っておけばよかったか……)
大まかな方向は間違っていないから、近くには来ている筈なのだ。なのに、いくら歩いても一向に森を抜けられない。
しかし、溜息ばかり吐いていても仕方がない。もうしばらく歩いてみよう、と太陽の位置を頼りに木々を分け入る。
と、突如視界がひらけた。
(う、わ……・・)
半助の視界いっぱいにけぶるような薄桃色が広がる。
ぽっかりと開けたその一画を囲むように咲き乱れる満開の桜、桜、桜――。
ちらちらと舞い散る花片のほかに、動くものは何もない。
(これは、すごい、な……)
異世界に紛れ込んだような錯覚に捉われ呆然と立ち尽くす半助を、静寂が包む。
軽い眩暈を感じながら、半助の頭に幼い頃に聞いたある物語が蘇った。
今は昔。
とある地方の峠に必ず桜の森の下を通らねばならない道があり、どういうわけか満開の季節にそこを通った旅人は、例外なく気がおかしくなった。そこでは、花びらがちらちらと散るように、己の魂もまた散っていくような錯覚に襲われるのだという。
そのうち旅人達は花の季節にその道を通ることを避け、遠回りをして別の山道を歩くようになった。
そして、人が誰も通らなくなった山には、満開の桜の森だけが残った。
この言い伝えを幼い自分に語ったのが誰だったか、半助は覚えていない。
ただ、そのとき脳裡に浮かんだぞっとするような花の美しさ。この世に自分と桜だけが存在しているような恐ろしく、しかし甘美な感覚は、今でもはっきりと覚えている。
そのとき、花霞に酔ったように遠い記憶のなかを漂っていた半助を、ざわ…と一陣の風が吹き抜けた。
春風は満開の花を一斉に舞い上がらせ、そしてひらひらと降る桜色の向こうに、ひとりの少年が立っていた。
こんな山中で人に会おうとは思わなかった半助は、ぎょっとする。
(妖、か?)
と、半助に気づいた妖が口を開いた。
「見かけない人だけど、どちら様?」
思いがけず気さくな口調でにっこりと問われ、半助の意識は一気に幻想世界から現実へと引き戻された。
よくよく見ると、少年はどこからどう見ても人間だった。
清潔そうな白の小袖に、若草色の袴。手には浅葱色の風呂敷包み。こざっぱりと丁寧に結いあげられた髪に、端正な目鼻立ち。歳は、十四五くらいか。
俺も桜の妖力にやられたかな…と苦笑しつつ、半助の中に新たな疑念が湧く。否、疑念というより、確信に近かった。
(…こいつ、ただの子供じゃないな)
少年の動きには、無駄というものが一切なかった。
こんな動きが身についているのは――。
答えない半助を少年がじっと見つめる。
そして、声を低め、言った。
「あなた、忍びの方ですね」
(ああ。やっぱり)
「君もね」
半助が返すと、少年が警戒を強めるのがわかった。
一方半助は、すっかり余裕を取り戻して面白そうに少年を観察する。
(確かに一見隙はないが、まだまだ、だな。ま、何はともあれ、これで無事に辿り着けそうだ)
「君、忍術学園の生徒だろ?」
「……あなたは?」
少年は警戒をとかない。
(…ふーん。いい眼をしてるな)
半助はにっと笑う。
「今日から忍術学園で教師をすることになった土井半助だ。よろしくな!」
「え。せん、せい――?」
少年はぽかんとした。
途端に幼い顔になる。
「君は?何年生?」
「え?……ああ。俺は多紀平太。六年です」
「平太か。ところで早速だが、忍術学園はどっちだ?」
「…は?……どっちもなにも」
平太は一瞬質問がわからないという顔をし、それからちょいちょいと半助を手招きした。平太に従い桜の合間を擦り抜けた途端、視界が百八十度ひらけた。すぐ眼下に見えているのは、忍術学園の建物である。
つまり半助は、学園のすぐ真裏でぐるぐるしていたことになる。
「えっと、土井、先生?本当に知らなかったんですか?教師って……大丈夫なんですか…?」
自分達のことを心配しているようにも、半助のことを心配しているようにも、どちらにもとれる微妙な顔で聞かれる。
「だ、大丈夫に決まってるじゃないか!心配すんな。これでもちゃーんと採用試験に通ったんだから!」
「ふーん…。ならいいですけど」
採用試験が早口言葉だったことはあえて言わない半助だった。
正門を入ったところで、二人は別れた。
半助は着任の挨拶のため学園長室へ、平太は新たな組分けの貼紙を見に六学年の教室へ。
平太の新しい担任が半助であると互いが知るのは、すこしだけ先の話。
novels top