白、白、白。
すべてが白一色のなかを、文次郎は走っていた。
毎年この季節になるとこの一帯で発生する濃霧は、敵の目から文次郎の姿を隠してはくれていた。
だがそれは文次郎にとっても同じことで。
敵どころか周りの木々も地面さえも、何ひとつ見えやしない。
それでも走る。
走らなければ、その先にあるものは一つだからだ。
まだ自分は何もしていない。
ガキの頃から追い続けてきたあの夢は、まだ始まってもいないのだ。
だから、走る。
どこへ?
――忍術学園へ。
『まったくお前は間抜けだな』
同室人の呆れたような顔が目に浮かぶ。
ああ、またあいつの毒舌を聞かされることになるのか。
ああもう、傷は痛いし、出血で頭はぼうっとしてくるし、周りは真っ白で何も見えないし、方角だけは合っている、、、はずだが。
一体どうしてこんな夢を、自分は選んでしまったのだろう。
痛くて、苦しくて、惨めで、ぼろぼろで。
恰好いいことなんか何ひとつない。
だけど。
それでも、俺は―――。
だから。
こんなところで死ぬわけにはいかない!!
『文次郎』
だれかが、呼んでる。
だれだろう。
母上?
いや、兄上かな。
行かなきゃ。
でも、なんだかここはひどく心地がよくて。
もうすこし、だけ――。
『文次郎』
……。
『文次郎』
……うるさいな。
もう少し、このままでいたいのに。
あ。
なんか。
あったかい、感触。
しっとりとして、優しい。
体を満たしていく、熱い―――
「っげほっ!!」
意識が覚醒したその瞬間。
文次郎の口から吐き出されたそれは、大量の水だった。
っく、るし――っ
「全部吐き出せ」
耳元で低く囁く声のままに、体を丸め、再び少量の水を吐く。
「ごほ!!…っ…はぁ…はぁ…・・」
温かな手に背中をさすられながら、浅い呼吸を幾度も繰り返し。
すこしづつ、肺が本来の働きを思い出しはじめる。
「ゆっくり、呼吸して」
言われるがまま、吸って、吐く。
脳に、酸素が行き渡っていくのがわかる。
そしてようやく、文次郎の目に、周囲の景色が入ってきた。
険しい顔で、だがほっとしたように文次郎を覗き込んでいるのは――。
「土井せ…」
体を起こそうとした刹那、肩から背へと鋭い痛みが突き抜けた。
「っ…!」
ぐっと奥歯を噛みしめた文次郎に、一年は組の教科担当、土井半助は、苦痛を和らげるようにそっと胸をさすってくれた。
「じっとしていなさい。お前は怪我をしてるんだ。覚えていないか?」
……怪、我……。
その言葉に。
混沌としていた記憶が、ひとつひとつ、ゆっくりと蘇ってくる。
ああ、そうだ。
俺は、実習に出て――。
その実習は、さる有名な城からの極秘の依頼に基づくものだった。
交戦中の敵方の城へ侵入し、水面下で動いているといわれる周辺国との同盟がどの程度まで進んでいるのか、それを探ってきてほしいというのである。
とはいっても戦闘状態にある城というものは当然ながら最高レベルの警戒網が敷かれているものであり、さらにそのような戦況を左右する機密事項が話し合われる場となれば、ネズミ一匹入り込む隙がないのが普通である。
生徒の質の高さには自信のある忍術学園だったが、それでもなおそれは生徒に担当させるには難易度の高すぎる依頼だった。
六学年の教師達は、この依頼を引き受けるべきか否か、ぎりぎりまで意見が分かれたという。
しかしこの乱世、プロの現場ではこの種の依頼は増える一方であり今経験しておく意義は大きいこと、そして今回の実習の番がたまたま学年で成績一、二を争う文次郎であったことから結局引き受けるに至ったのだと、文次郎に任務内容を説明した担任教師は言った。
文次郎はそれまでも困難な実習を数多く経験していたから、今回も気負うことなく、淡々と仕事をこなした。
しかしあと少しで城を脱出というところで、運悪く警備の兵と鉢合わせてしまったのである。
闇に響き渡る笛の音とともに、瞬く間に文次郎は十数人の兵に取り囲まれた。
あの状況からよくぞ逃げられたものだと、自分でも感心する。
もっとも肩にちょっとやばいかな?と思わなくもない怪我は負ったが…。
その後は一心に霧の中を駆け抜け。
そして気付いたときには後方に迫りくる追手、前方に断崖絶壁という、前にも後ろにも進めない状態に陥ってしまっていたのである。
文次郎は覚悟を決め、一か八かで崖を蹴った。
そして――。
しばらく記憶の海を漂っていた文次郎は、じっとこちらを見守っている教師、半助にゆっくりと視線を戻した。
「思い出したか?」
そう問いかける彼の髪からは水がぽたぽたと滴り落ちていて、よく見ると服もぐっしょりと濡れている。
「はい、川へ飛び込んだところまで、ですが……。あの、土井先生はなぜここに…?」
そこだけが全くわからないと首を捻った文次郎に、半助は濡れた前髪を少し鬱陶しそうに掻き上げながら、「釣りをしてたんだ」と笑った。
「……は?」
我ながら間抜けな声だ、と思いながら文次郎は聞き返した。
半助はのんびりと繰り返す。
「だからね、私は釣りをしていたんだよ。お前がこんな実習をしていたときに申し訳ないが、今日は休日だろ?しばらく家に帰ってなかったから、きり丸と、それに乱太郎としんべヱもつれて掃除に帰っていたんだ。そしたら昼時になって突然しんべヱが魚を食べたいって言い出してね。私が買いに行こうとしたら、きり丸がそんなのもったいない!川で釣ればタダなのに!って言ってきかなくて…。仕方がないから四人で川へ釣りに出たら、魚じゃなくてお前が釣れちゃったというわけだ」
若い教師は可笑しそうに、くすくすと笑った。
その長閑な話はほんの少し前まで自分がいた世界とあまりにかけ離れていて、まるで御伽噺を聞いているような気分に文次郎はなる。
――しかし。
「乱太郎達の姿は見えないようですが…」
文次郎が今いる場所は、薄暗い洞窟のような場所である。
水の音がしているから川は近いのだろうが、ここからはわからない。
そして意識を取り戻したとき文次郎の傍らにいたのは、半助ただ一人だった。
「先に学園に戻らせたんだよ」
半助は少しだけ声音を改め、しかし淡々と答えた。
「え?」
「潮江の実習って、昨夜学園に持ち込まれた例の案件だろう?そして今この状態のお前がここにいるとなれば、次に何が起こるかは明白だったからね。あの三人をここに残すのは危険と判断したんだ。…この意味は、わかるよな?」
「……はい」
――再び追手が現れる、ということだ。
文次郎を、消すために。
これが密書を盗むというような任務であれば、大抵の敵は密書さえ取り戻せば退く。
無駄な闘いを好まないのは敵も同じだからだ。
しかし今回の場合は、違う。
戦の行方を左右するその情報は、文次郎の頭の中にあるのである。
それが依頼主、つまり敵方に渡れば一貫の終わり。
だからそうなる前に、文次郎自身を抹消するため、必ず彼らはやってくる。
そして今度来るのは、おそらく――。
「本当はお前も抱えて一緒に帰りたかったんだけどな。出血が多くて、すぐに動かすのは危険だったんだ。というわけで、後でちゃんと新野先生には診てもらうから、しばらく私の応急処置で我慢してくれよ?」
半助はそう言うと、懐からやはり濡れてしまっている晒と小さな容器を取り出し、文次郎の上半身を起こさせた。
そして改めて右肩から背にかけてざっくりと入った刀傷を確認し、微かに眉を顰める。
「――この薬はね、止血と毒消し、それに炎症止めの効果もあるんだ」
容器の蓋をずらし、練薬を人差し指に掬いながら、半助が言う。
「ただし、少々沁みるんだが…」
「痛みなら、私は平気です」
文次郎はきっぱりと言った。
痛みが怖くて、忍者などやれるか。
半助は「頼もしいな」と笑い、それから文次郎の後ろにまわると、動かないように左手で文次郎の上腕を固定した。
そして。
そっと傷に薬がのせられる。
「…!!」
瞬間、文次郎はびくりと体を跳ねさせた。
なっ…にが、“少々沁みる”だって…!?
少々なんて生易しいものではない。
それは傷口に塩を塗られているも同然の、強烈な刺激だった。
「ぅ…っ」
「我慢して」
奥歯を噛み、声を漏らさずにいるのが精一杯の文次郎に、しかし半助は手を緩めずに素早く丁寧に薬を塗り込めていく。こういうのは中途半端にされる方がかえって辛いことを、わかっているからだろう。
「もうちょっとだ」
「…っ…」
「―――はい、終わり」
言葉とともにピタリと指が止まったときには、もはや虚勢を張る気力も残っておらず、ぐったりと全身から力が抜け、地面にへたりこんでしまった。
「えらいぞ。よく我慢したな、文次郎」
半助が小さな子供に言うように優しく言い、文次郎の頭をごしごしと撫ぜる。
「………」
文次郎は、自分が赤面しているのがはっきりとわかった。
……なんか……、ものすごく、恥ずかしいんだが……。
この教師はいつもは組の連中と一緒にいるせいで、こういう接し方が癖になっているのだろうか。
それとも彼にとっては、一年も六年も“生徒”という意味で大した変わりがないのか。
だけど、こんな風に頭を撫でられるのも、そして下の名で呼ばれるのも、かなりくすぐったいけれど決して心地の悪いものではなかったから。
ま、いいか、と文次郎は思った。
「本当のことを言うとな、今回の話、私は生徒にやらせることには反対だったんだ。たとえそれが潮江、お前でも」
「……」
「それぐらい、難易度の高い危険な任務だったんだよ。だがお前は一人でここまで辿り着いた。よく頑張ったよ」
晒を巻き終えた半助が正面に戻り、文次郎の目を見る。
「…運が良かっただけです。先生が偶然見つけてくださらなかったら…、今頃は…」
「運も実力のうちって言うだろう?――あ、いまのはもちろん保健委員には内緒だぞ」
そう言って悪戯っ子のように唇の前で人差し指を立てて笑った半助に、文次郎もなんだか友人と話しているような気分になり、「はい」と笑って頷いた。
それから血染みで使い物にならなくなった服を脱ぎ棄て、予備の服に改め終えた、そのとき。
不意に半助が、洞窟の入口へと視線を流した。
「――けどな」
声が、低められる。
目はじっと入口に据えられたままだ。
そこからは相変わらず水音以外は何も聞こえない。
しかし、文次郎にもはっきりと捉えることができた。
複数の、自分達と同じ種類の者だけが持つ、気配。
「依頼主の元に戻るまで、お前の任務は終わってはいない。だから――」
ここで、黙って見ていてくれるか?
そう告げられて、咄嗟に文次郎は言い返していた。
「私も闘います!」
半助が、ちらりと文次郎を見る。
それは一瞬だったが、その眼差しの厳しさは、さらに言い募ろうとしていた言葉を文次郎に飲み込ませるに十分だった。
「――忍びの仕事で、一番大事なことは?」
静かな声音で、囁かれる。
「…任務の、遂行です」
「お前の任務は?」
「……城で得た情報を、…依頼主に報告することです」
「じゃあ、怪我を負ってるお前が今すべきことも、わかるな」
もう半助は文次郎の方を見てはいなかった。
前方を見据えているその目は湖面のように静かで、けれど全身に張り巡らされた神経の緊張がびりびりと痛いほど隣にいる文次郎にも伝わってくる。
文次郎はぐっと爪が食い込むほどきつく拳を握り締め――。
「………はい」
頷いたその一瞬ののち。
肌を突き刺す鋭い殺気と同時に、目の前で血飛沫が上がった。
敵は、四人。
いや、今は三人だった。
一人は既に目の前で事切れているからだ。
っ…なん…、だよこれ―――
目前で繰り広げられているその光景に、文次郎は目を疑った。
それは闘いなどと呼べるものではなかった。
襲ってくる忍びの動きは恐ろしく速いのに、半助はそれを上回る速さで、しかし僅かな動きだけで次々と倒してゆく。
敵にも半助にも声はなく、聞こえるのはただ風を切る音だけで。
もし文次郎が普通の人間だったら、何が起こったのかまったく理解できなかったろう。
それくらいあまりに一瞬で、すべてが片付いてしまったのだ。
再び、文次郎は半助と二人きりになっていた。
周囲には、四つの、かつて人間だったもの。
その顔には苦痛も、恐れもなく。
今にも話し出しそうな表情で、虚空を見つめている。
きっと彼らは、最期のその瞬間でさえ、自分の身に何が起きたのかわかっていなかったに違いない。
「歩けそうか?」
突然かけられた声に、文次郎ははっと我に返った。
「あ…、はい」
先程の薬のおかげか出血は止まり、痛みもだいぶ和らいでいた。
「じゃあ、ぼちぼち帰るか」
そう言って、半助は微笑んだ。
見張りがいないことを半助が確かめた後、外へ出ると、そこはもう夕暮れで。
目の前には半助が文次郎を釣ったという、川。
水面はきらきらと茜色に光り、その上を赤とんぼが飛び交っている。
「もう夏も終わりだなぁ」
秋の気配を含む風に、半助がのんびりと言う。
と、川面で群れていた赤とんぼが一匹、群れから離れ、半助の肩にとまった。
気持ちよさげに羽を休ませているそれに、半助は優しい眼差しをやり。
それからそっと指先を近づけると、とんぼは再び半助の肩から飛び去った。
夕陽に染まる山へと、それは帰ってゆく。
「――潮江はさ」
とんぼの行った先を見つめながら、半助が静かに呟いた。
「私の闘い方を見て、どう思った?」
「……」
「あまりにもあっけなかったと、思わなかったかい?あの一瞬で、彼らの人生は終わったんだ。今朝起きて、ご飯を食べて、仲間と話していたその命が、何もなければ今夜も家に帰って布団で眠っていたはずのその命が、あの一瞬で全て消えたんだよ」
半助はゆっくりと振り返り、じっと文次郎を見つめた。
「忍術学園でお前が学び、私が教えているのは、そういうものなんだ」
「……なぜ、そんな話を、私にするんですか」
「お前には、それができてしまう力があるからだよ」
その気になれば、多くの命を一瞬で奪ってしまえる、それ――。
「今はなくても、遠くない将来、必ずお前はそれを手に入れる」
「……」
「だから、覚えておいてほしいんだ」
柔らかな初秋の風が、しっとりと水分を含んだ半助の髪を微かに揺らす。
河原で遊ぶ子供達の声が聞こえる。
「この力は奪うだけじゃない、与えることもできるんだってことを。さっき私がお前を守ることができたように。どう使うかは、お前次第なんだよ。今更こんな話ってお前は思うかもしれないけど、こんな簡単なことも、人は忘れてしまうものなんだ。だから潮江。もしいつか、忍びである自分に、進む道に迷うことがあったら、そのときは今日のことを思い出してくれないか」
いつか、学園を出て、ガキの頃からの夢を叶えて、だけどその道に迷ってしまったときには―――。
「――はい」
はっきりと頷いた文次郎に、半助は嬉しそうに微笑んだ。
大切なことを言い終えて、少しだけほっとしたような顔で。
学園に着くまではいつ再び刺客が現れないとも限らないため、できるだけ人気の多い街道を二人はとった。
「腹へったなあ。お前、今日の夕飯なんだと思う?」
「今朝おばちゃんが、そろそろ寒くなってきたからおでんもいいわね、って言ってましたよ」
「えぇー!?!?」
「けど兵助が『それなら湯豆腐にしましょう!』とも言ってましたから、ま、おでんか湯豆腐のどちらかでしょう」
「う〜〜〜〜〜〜、湯豆腐、湯豆腐、湯豆腐でありますように!!」
「子供じゃないんですから…」
「うるさいっ。願い事ってのはな、こうして心から願えば叶うんだよっ」
そんな他愛のない話をして、金色に光るススキの路を辿りながら。
今日は本当に色んなことがあったと、実に目まぐるしかった一日を文次郎はひとつひとつ振り返った。
朝起きたら、今までにない難しい実習を命じられて。
ようやく完了と思ったら、見つかって。
肩を斬られて、追いかけられて。
川に飛び込んで、危うく死にかけて。
目を覚ましたら、土井先生がいて――。
そこまで回想がすすんだとき。
文次郎は、はたとあることに気がついた。
………。
もう一度、じっくりとその部分の記憶を呼び起こす。
目を覚ましたとき、水を吐き出した俺を、土井先生は真剣な顔で見下ろしていた。
先生は髪も、服も、……唇も…濡れていて……。
文次郎は隣を歩く半助の唇に、思わず目をやった。
俺は土井先生に息を吹き込まれて…、それで、意識を取り戻したんだったよな。
と、いうことはだ。
俺は…、先生と――。
…!!
文次郎は、慌てて半助の唇から視線を逸らした。
心臓がばくばくと脈打ちはじめる。
落ち着け、俺!
あんな行為には何の意味もない。
授業でもやったじゃないか。
ただの蘇生法だ、蘇生法。
ただの、蘇生法………・・。
その帰り道。
文次郎は、もうまともに半助の顔を見ることができなくなってしまった。
感情は理屈どおりにはいかない。
そんなことをつくづく思い知らされた、潮江文次郎十五歳、思春期真っ只中の秋の夕暮れだった。
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