きんと冷たい早朝の空気に程よい緊張感を感じながら、平太は静かに自室の木戸を閉じた。
中庭に降り、んー、と伸びをする。
辺りはまだ闇が支配しているが、黒々とした山の向こうの空は、もう明るくなり始めている。
吐く息が白い。
師走も、もう半ばである。
寝ている間に固まった筋肉を軽くほぐして、裏門へと向かう。
数日前から、平太は毎朝裏山へのぼり、自主鍛錬をしている。
豪族屋敷の一件から、二週間が過ぎていた。
左胸の怪我は、今はもう殆ど完治している。
だが、あの出来事が平太に残したものは小さくはなかった。
あの夜、平太は自分の忍びとしての未熟さを容赦なく思い知らされた。
豪族屋敷で鉢合った忍びはどれも平太とは桁違いのレベルで、平太は屋敷を脱出するのが精一杯で逃げ切ることもできず、ただ密書を胸にひたすら身を隠すことしかできなかった。
そんな忍びを、半助は瞬時に一撃で斬り伏せた。
伝蔵に至っては、三人もの相手をたった一人で始末したのだ。
彼らが教師で自分が生徒などという理由は、通用しない。
あと三月ばかりで卒業なのだ。もう甘えていられる時期ではない。
そして何より、いつまでも半助に守られているだけの自分ではいたくなかった。
次第に明るくなる東の空に、薄い朱色が広がる。
今日もいい天気になりそうだな、と考えたとき、ふと傍らの濡れ縁に腰掛けている人影に気が付いた。
たった今まで思い浮かべていた平太の恋人、半助である。
そういえばここは半助の自室の前だった。
まだ薄暗い中、茫と明けゆく空を見上げていた彼は、平太に気付いてちょっと驚いたような顔をし、それから、柔らかく微笑んだ。
「ずいぶん早起きなんだな」
「…裏山へ自主トレに行くところなんです」
平太は照れくささを感じながら、笑って答えた。
「自主トレ?」
半助が首を傾げる。
「ええ」
「…怪我は、もういいのか?」
「はい。もうすっかり」
半助を前にして、もっともっと強くならなければ、と平太は改めて感じる。
この愛しい人を、二度とあんな風に泣かせてはならない。
半助も理由は知らないなりに何かを感じたのか、それ以上は追及せず、
「そっか、がんばれよ」
と微笑んだ。
「先生こそ、どうしたんですか?こんな明け方に」
「うん、一度目が覚めたら、眠れなくなっちゃってさ…」
そう言って苦笑する。
「そんな格好でこんな処にいたら、風邪を引いちゃいますよ」
半助はまだ寝巻のままだった。
今朝の空気は霜がおりるほど冷え込んでいて、それにもかかわらず、上着も羽織っていない。
一体いつからここにいるのだろう。
何気なく肩に触れると、それは氷のように冷たく、平太は驚いた。
思わず手を伸ばして抱き締めそうになったが、部屋の中で伝蔵が寝ていることを思い出し、思いとどまる。
その代わり、そっと手をとり、両の掌で包み込んだ。
「あったかいな」
そう言って半助は目を細め、庭に視線を向けて、口を閉ざした。
そんな半助に、平太はすこし戸惑う。
最近半助は、こうして何かを考え込んでいることが多かった。
あの豪族屋敷の夜から、半助の様子はどこか変だ。
何がどうと言われると困るが、明らかに、今までの半助と何かが違う。
そんなことを考えながらその横顔を見つめていると、不意に半助が平太の方を見た。
「平太、あの、さ」
と言いかけて、半助はちらと後ろの自室に視線をやる。そして、「ちょっとこっちへ来い」と繋いだままの平太の手を引いて歩き出した。
早く部屋に戻らせないと本気で風邪を引くな、と思いながら、平太は黙って従った。
長屋の角を曲がり、少し離れた位置まで来ると、半助は潜めた声で言った。
「あのさ…。冬休み、よかったら、家へ帰る前に一日うちに寄らないか?…その、ここだとなかなか二人でゆっくりできなかったから…」
平太は耳を疑った。
まさかそんな提案を半助がしてくれるだなんて、思ってもみなかったのだ。
そうなのである。
半助と付き合ってからずっと平太を悩まし続けてきたその問題。
この学園は、“いちゃいちゃ”できる場所があまりにも少ないのだ。皆無といってもいい。
今の自分たちの関係を思うと、思う存分許されてもそれはそれで平太にはきついものがあるが、それにしてもここでは周りの目や耳が気になって、うかうか抱き締めることさえできないのである。
なにせここの住人達は普通じゃない。
目敏さ、耳敏さにかけては右に出る者がいないエキスパート達なのだ。
「本当に!?じゃあ俺、うちに帰るのやめる!休みは先生のうちで過ごすことにする!」
潜めるよう注意しつつも、声が浮き立つのを止められない。
「ちょ…っ、人の話をちゃんと聞け!冬休みずっとなんか駄目っ。一日だけ!ご家族はお前が帰るのを楽しみに待ってるんだから」
「……うー……。じゃあ、せめて二日!」
「……仕方がないなぁ」
半助は溜息をついて、苦笑しながらも了承してくれた。
「やった!」
「到着が遅れること、ちゃんとご家族に知らせておけよ」
「はーい」
「よし。そろそろ行かないと、自主トレの時間がなくなるぞ」
「うわ、本当だ」
東の空がだいぶ明るくなっていた。
朝靄が山にかかっている。
「じゃあ先生、俺、もう行くけど。冬休み、絶対に約束ですよ!」
そう念を押すと、半助は「ああ」と微笑んで、部屋の方へと戻って行った。
その後ろ姿はやはり以前とどこか違い、平太はしばし考え込む。
だが、半助の中にどのような変化が起きているにせよ、平太は黙って見守ろうと決めていた。
もっとも、放っておくと平太のためだとかぐるぐる考えた末に、勝手にとんでもない結論を出して離れて行きかねない半助である。そういうときは、また自分が引き戻してやればいい。
いずれにしても、冬休みまであと二週間。
休みの間は半助と離れ離れか…とげんなりしていただけに、突然もたらされた思わぬ幸福に平太は口元を綻ばせ、勢いよく裏山へと駆けた。